ある日、中学生の女の子から、こんな手紙をもらった。
「わたしの父は、日曜日、テレビを見るか、ゴロ寝をします。友達が来るとマージャンとゴルフの話ばかりです。だからわたしの母は、弟にいつもいいます。勉強しないと、お父さんみたいに出世できない人になるよって、母はわたしにいつも父の愚痴ばかりこぼします。わたしはそれが、とてもイヤです」
よくある話だ。娘や息子をつかまえて、父親の無気力やわがまま、だらしなさを、グジャグジャこぼす母親。子供たちにそれ以外の話題のないような母親。無意識のうちに、父親への軽蔑《けいべつ》を子供たちに伝染させ、植え付けている母親。
「だから、あんた、一流の学校に進学しなくちゃだめよ」
夫への不平不満が、そのまま息子への教育に変わるような母親。私はそういう母親をみると、何ともいいようのない空虚感を感じる。彼女はそういうやり方で、逆に子供たちをだめにしていることを知らない。もしくは、子供たちから、自分までがばかにされていることに気付かない。
よほどの人間でない限り、男にはいい点があるものだ。よほどの亭主《ていしゆ》でない限り、亭主にはいい点はあるものだ。たとえ彼が出世しなくても、無気力で、テレビとゴロ寝ばかりで暇をつぶすような男であったとしても、自分や子供たちのために、毎日、働いている——それだけでもいい点ではないか。その点をなぜ見てやろうとしないのであろう。
私は、こういう愚痴こぼし型の母親が非常に増える一方、別の形、自信のない母親の増加したことにも、むなしさを感じる。
この種の母親は、かなり教育熱心である。だがその熱心さには何か、自分の教育方法と我が子に対する自信のなさが感じられる。
なぜならこういう母親は、自分で我が子を見て、どうすればいいかと考えるよりは、他人の意見をすぐ仰ぐからだ。
「あの、一方ではスパルタ教育をすべきだという先生と、いや、伸び伸びとした放任主義がいいという先生とがおられますが、どちらがいいんでしょうか」
ある日、テレビでこういう質問をゲストの教育評論家にしている母親を見て、私は失笑した。これは子供をもった母親にしてはあまりに無責任な質問だったからである。
スパルタ教育が絶対いいとか、放任主義教育がいいとか、だれだって答えられぬことである。それは一人一人の子供の環境、一人一人の子供の性格、一人一人の子供の肉体的条件による。体の弱い、性格の弱い子供にスパルタ教育をすれば、心がねじ曲がる時もある。わがままな一人息子をあまりに放任主義にすれば、どうなるか火を見るより明らかだ。
「このようにせねばならぬ」という普遍的な教育方法は一つもない。教育方法というのは、それが集団の場所で行なわれない限りは、あくまで一人一人の子供によって違うものであることは当然である。そして、子の性格、健康、心理、環境をいちばんよく知っているのは親だから、隣家の子がスパルタ教育によって「いい子」になったから、うちの子もそうすべきだと考えるのは愚の骨頂である。別の家では、放任主義教育をやり伸び伸びとなったから、我家の坊主もそうしようと思う親は、よほどばかである。
「あの、スパルタ教育と放任主義と、どちらがいいんでしょう」
テレビでそのような質問をする母親は、よほど我が子を観察していないと考えるより仕方がない。一見、教育熱心に見えるこうした母親が今の日本にどんなに増えたであろう。そのくせ、こういう母親に限って、
「子供を個性的に成長させたいんでございます」
というのである。自分の教育方法に個性が欠けているのに、全く彼女は気付いていないのだ。