夜おそくまで自分の部屋に閉じこもっている私は、必然的に朝寝坊をする。したがって朝飯は一人で食卓に向うようになる。
夜おそくまで自分の部屋に閉じこもっていると、家族はその私が勉強をしているか、仕事をしているのだと思っているらしい。そして朝寝坊は今は黙認されるようになった。だが実をいうと、私は夜おそく自分の部屋で居眠りをしたり、鼻毛をとったり、引出しからウイスキーの小瓶を出してそれをなめながら過していることが多い。ただ家族にそのことは言わない。言うと私の威厳が損じるからだ。
朝飯を一人で食うのは、はなはだ楽しい。なぜなら食べながら朝刊を読めるからだ。家族と一緒に食卓に向うとき、このようなことをすると、非常に妙な顔をされるか、非常に叱られる。だからこのときだけは悠々と、落ちついて朝刊をひろげ、スポーツ欄から三面記事に至るまでゆっくりと読む。この時間が一日のうちで最も幸福だ。
ところが昨日、その新聞に嫌《いや》あな記事が載っていた。
それはつい最近、死んだばかりのモーリアックという仏蘭西《フランス》の小説家のニュースだった。この作家は私も昔からはなはだ尊敬していたのだが、生涯、たった一度も細君と夫婦喧嘩したことがなかったとその学芸欄には書かれていたのである。
たった一度、彼が良妻賢母を諷刺したような作品を書いたとき、それを自分のことをモデルにしたのだと思った夫人が非難したことがあったが、モーリアックはやさしく接吻して、
「あれは想像で書いたのだよ。君を傷つけて悪かったね。ぼくは君だけを愛している」
そう答えたという。
これ以外、この有名な作家とその妻には夫婦喧嘩らしい口論さえなかったというのだ。
朝飯もそこそこに、私は急ぎあわててその頁を破り、ポケットに入れた。私の妻は新聞は三面と女性週刊誌の広告しか見ないお方であるから、まずまず安心であるけれども、万一、まかり間違ってこんな記事を読んだら大変だと思ったからである。もし彼女がこれを読んだならば、そこは女の愚かさで向うは世界の大作家、こちらはあわれな三文文士であることを忘れ、
「まア、何とえらいんでしょう。同じ小説家でも、誰かさんとは月とスッポンね。実に立派だわ。感心よ。尊敬するわ。それにくらべて、あなたは何と駄目なんでしょう」
そう口には出さぬが、心の中で思うことは必定《ひつじよう》であるからだ。なぜ口に出さぬかと言うと、そういうとき、口に出せば私がグッと睨《にら》みつけるからであって、私の睨みはまだ家庭内でかなり威力があるのである。
モーリアック氏は尊敬していたが、この日だけは、この記事を読んで、がっかりした。なんでえ。何が君を傷つけて悪かっただ。何が君だけを愛しているだ。こういう背中にジンマシンの起きるようなことを古女房に言う亭主はわが日本国にはいない筈である。
夫婦喧嘩のどこが悪い、というのが私の平生の考えである。そりゃあ、相手に致命的打撃を与えたり、破局、別居に至るようなシンコクな喧嘩なら私だって、ヨセ、ヨセというが、女房の頭の三つや四つは張りとばしたって、女房が亭主にかみついたって、あとがさっぱりするような喧嘩なら私はむしろ、やれ、やれと言いたいほうである。私が一番いやな夫婦喧嘩は、あの冷戦という奴だ。双方、隠花植物みたいな顔をして、
「あら、そうですか」
「そうですよ」
何日も何日も黙りこくっているような喧嘩である。あれをやるぐらいなら肉弾相うつほうがよほど人間的だ。