さすがに今は私だって夫婦喧嘩もしなくなったが、結婚当初は向うも血の気の多い女子学生だったから実によくやった。相手は子供のころから合気道を習っていたし、男兄弟と実戦の経験をかなり持っていたらしく、腕に自信があったらしい。こっちは女の姉妹がいなかったから、女など一発張りとばせば、それでいいのだという錯覚があった。ところが、どっこい、そうはいかなかった。
女姉妹がいない私は、男兄弟とやった喧嘩と同じように接近戦にもちこんだため、大敗北を喫したのである。男兄弟とは撲りあいの喧嘩が普通である。あるいは相手を腕力で押えつけるのが普通である。私は女房との場合もそれと同じことをやろうとした。
その瞬間、私は手の甲に稲妻の走るような痛みを感じた。敵は私が全く知らない「引っ掻き戦法」を使ったのである。引っ掻くなんて、男兄弟しかない私には全く知らぬ奇襲方法だった。
実に痛かった。女の爪があんなに痛いとは思わなかった。みるみるうちに手の甲に五つのミミズばれができ、血さえにじみ出ている。
「痛《い》てて、ててて」
私はその日一日、ひどく痛そうに手をふったり、傷口をなめたり、鉛筆をパタリと落したりして、被害を殊更に誇張し、敵をして後悔せしめんと試みたが、相手は悔いるどころか、ざま見ろという顔をしている。
特に困ったのは外出するとき、手をかくすことができぬからである。
「どうしたんだ、それ?」
友人に言われて、
「女房に引っ掻かれたんや」
そんな情けないことを男として言えるものか。
「猫にね、やられてね」
「おめえんとこ、間借りじゃねえか。猫、飼ってるのか」
「いや、近所の猫だ」
何が猫なものか。
こうしてかなり合戦をくりかえすうちに、私は次第に細君と喧嘩するときの作戦やコツを知るようになった。
第一に接近戦は禁物だということ。その理由は、今、言ったように敵は腕力においてリーチも男より短く、力においても劣るので、歯と爪を使用することがわかったからである。接近してかみつかれたり引っ掻かれたりしないことが亭主のとるべき作戦である。
第二に女というものは逆上すると恥も外聞もなくなるから、逆上一歩手前で終戦もしくは休戦にもちこむべきだということである。窮鼠《きゆうそ》かえって猫をかむ——つまり追いつめられたチュー公は、何をするかわからないというのは細君の場合も同じだと知るべきである。私の友人で夫婦喧嘩のとき、細君が窓から首を出して、
「御近所のみなさん、聞いてください。うちの人はこんなこと、したんですよオー」
と叫ぶ戦術をとられ、あとで女とは逆上すると恥も虚栄心もなくなるからコワいと呟いていた奴がいた。そこまで女を逆上させたら男は必ず負ける。女にまだ恥と外聞とが残っているうちに休戦すべきである。