ベスト・セラー『誰のために愛するか』の曽野綾子さんの御主人は三浦朱門である。三浦と曽野さんだって夫婦喧嘩をするだろうと、ある日、たずねると、
「もちろん、するとも」
と三浦は大きく、うなずいた。
「そのとき、どうするかね、君は?」
すると三浦はなかなか、うまい戦術を教えてくれた。
それは相手がくたびれるまで、黙っていることだという。三浦は曽野さんから叱られると、彼女の口がくたびれるまで、黙って聞くふりをしているのだそうだ。(本気で聞く必要はない、と彼はハッキリ言った)そして曽野さんの口がくたびれたときから、彼がしゃべり出す。するともはや、口のくたびれた相手は、反駁《はんばく》不可能な状態になっているのである。
この三浦の夫婦喧嘩術を聞いて進取の気性に富んだ私は、更にこれに改良訂正を加えてみた。その結果うまれたのが次の戦法である。
細君が怒りはじめたら、黙っているのは三浦式方法と同じである。ただ私の場合は、たんに黙っているだけではなく、顔に苦痛と悲しみとをいっぱいたたえた表情をとる。表情なんて鏡の前で二日練習すればできるものさ。
こうして悲しげに、辛《つら》げに女房の説教を聞く。(心の中では別のことでも考えているのが一番いい。私の場合は東海道線の一つ一つの駅名を思い出すことにしているのだ。東京、横浜、小田原、沼津、静岡、ベントウ、ベントウ、ベントウにお茶……)
反抗すると思った亭主が、意外にも辛げな顔をして自分の説教を聞いているのを見ると、女房は最初びっくりする。びっくりして、やがて怒りの言葉をぶちまけているうち、
(あたし、言いすぎたんじゃないかしら)
という不安が必ずや心をかすめる筈だ。この瞬間を利用して更に辛そうな表情をこちらはとる。なんなら庭の一点を見て、泪《なみだ》ぐむようなふりをしてもいい。
女房がこのときたじろいだら、しめたものだ。黙って自分の部屋に引きあげる。十分ぐらいするとたいてい、向うは、
「すみません。私もひどいことを言って……」
とあやまりにくるものだ。こうすれば、とにかく、こちらは勝てぬにしろ負けたとは言えない。