接近戦と同様に、女房と決してやってはならぬものは本格的口論である。口論をすれば男は必ず女に負ける。それは男が女より口下手だからではなく、女の記憶力のスゴさとその飛躍的論理のせいである。
女というのは、胃袋の中にあるものを絶えず口にもどしてハンスウしている牛と同じようなもので、過去にたいする記憶力だけは男に数段まさっている。婚約記念日とか結婚記念日とかは亭主にとって全く記憶も関心もないが、女房は実によく憶えている。その上、五年前の八月十日にこちらが言ったことまで記憶しているからスゴい。だから夫婦喧嘩のとき、
「今、そう、おっしゃいますけどね、三年前にはその反対のことを、あなた、言ったじゃありませんか」
「言ったおぼえはない」
「冗談じゃありませんよ、三年前の六月三日の夕方ですよ。会社の田中さんと酔っぱらって戻ってきたときですよ」
そういえば、たしかにそういうことがある。こうなると、もう喧嘩はこちらの負けなのである。
また女は男の思考法でものを考えない。男同士の口喧嘩では論理のスジの通っている者が必ず勝つ。しかし女房を相手に口喧嘩をしてもスジの通った論理で相手を負かそうとしてもこれ全く無駄なのである。女房にはこういうものは通用しないからだ。
それでは女房の思考法とはどういうものか。たとえばこうである。亭主が酔っぱらって深夜、帰宅する。すると女房は怒ってこう言うのだ。
「あたし、あんたが自動車でひかれはしないかと心配して眠れなかったのですよ。しかし、あんたはそんなに心配しているあたしのことなど考えずにお酒を飲んでいたのでしょう」
ここまではいい。ここまでならば男の論理であり、男の思考法である。しかし、そこから彼女たちは突然、飛躍する。
「そうよ、いつもそうよ、あんたはあたしのことなんかコレッポッチも考えてないのよ(第一の飛躍)。もしあたしが死んだって平気なんだわ(第二の飛躍)。だから、あたしが死んでもよ、墓なんかも来てくれず、あたしは一人で地下で眠っているわけよ(第三の飛躍)。あなたはそういう薄情なエゴイストよ」
酒を飲んでおそく帰ってきたことと、墓場と一体どういう関係があるのかわからないが、女房というものはアレヨ、アレヨというまに喧嘩の出発点から十万里もはるか彼方に飛躍した所に突然つれていって、怒るのである。こういう相手と口喧嘩をしたってかないっこないのだから、口喧嘩はさけたほうがいい。