君は女房に平手打ちをくわせたことがあるかい、とかつて私は親しい友人たちにひそかに聞いてまわったことがあった。私の友人たちはおおむね紳士だからこのぶしつけな質問に驚いたような顔をして首をふる者が多かった。中に三人ほど「ある」と答えた者もいた。
「しばしばか」「そうだ」「君はなぜ、かよわい女に暴力をふるうのか」「だって、君、女房はかよわい女じゃねえよ」
これでは答えにはならぬ。答えにはならぬし、私だって世の亭主が妻に一発お見舞いするのははなはだよくないぐらい結構わかっている。わかってはいるが、男として私は女房をたたいたという三人の友人の心情も理解できるような気がするのである。
夫婦喧嘩の際、たいていの夫は口では細君に負けるはずである。たとい夫の側に弱味や弱点がなくても、女の理屈は男の理屈とかみ合わず、強引、力まかせにこちらを組み伏せてくる。結局、やりこめられるのはいつも亭主だ。思わずカッとなって手が飛んでしまう。あのにえかえるようなくやしさは夫婦喧嘩の経験のある世の亭主ならたいてい御存じだ。
だがなぜ、男は女には口喧嘩では負けてしまうのか。ソクラテスだってその妻には口論でさえも頭があがらなかったらしいし、カントもそれを予感して一生、妻帯しなかったほどである。
私の考えでは女には、男の論理学の全く適用しえない理屈のすすめ方がある。われわれ男性は学校で論理学というものを習った。AはBなり。BはCなり。ゆえにAはCなり。こういう当然の論理で男同士は議論し、論争するのだが女にはこれらの論理学的論理は全くない。女は男のつくった論理学を無視する。