家庭において亭主が力を失った。これは確かである。戦争中まで夫婦や家族にともかくも秩序を与えてきた「家」の観念が崩壊して、その代りに「家庭」が出現したとは従来、たびたび言われてきたことだが、この「家庭」で亭主というものは私の感じではまるで他所者《よそもの》のような気がする。それが証拠には夕食後、家族が笑い声をたてている茶の間にもし亭主があらわれると途端に皆だまってしまう。座が白け一人去り、二人去り、そして亭主だけがとり残される。そういう経験はどんな亭主、どんな父親も多かれ少なかれ必ず知っているはずだ。こちらが仲良くしようとしても、家族が仲良くしてくれぬ。いや、こちらも家族と仲良くする技術を持ち合わせていないのかもしれぬ。とにかく、亭主とか父親は家庭では孤独である。
理由は簡単だ。かつての「家」は亭主や父親が支配しうるものだったが、今日、それにとってかわった「家庭」は、あくまでも女房のものだからだ。子供たちはすべてこの女房に結びつき、女房に支配され彼らは結束している。彼らにとっては父親を除外したもの、それが家庭だ。
変な言い方だが私は「妻」と「女房」とはちがうと次第に思うようになってきた。妻とはかつて「家」のあったところの産物であるか、あるいはまだ新婚当初の、家庭が形成されない段階の女の姿である。それは夫と決して力わざを挑まぬか、力わざをしてもねじ伏せることのできる段階の姿なのだ。だが、ある日、突然、この「妻」が「女房」にガラリと変る。私はそれを見たことがある。西陽《にしび》のあたる部屋にベタリとすわっていた妻のお尻から太い根がズルズルとのびて、畳をつらぬき、地面におりていったのを。もう押しても引いてもここから動きませんよ、と言うようで恐ろしかった。可憐で慎みぶかい妻の姿はこの日から失せ、私にはわけのわからん巨大な強力な女房が出現した。