ではなぜこわいか。別に女房からブタれたり蹴られたりするわけではないのになぜこわいか。これはいろいろな理由やまた御家庭の事情によって違うとは思いますが、一般的にいって次の段階をへるようです。
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一、女房なんてこわくないと思う段階
二、女房が思いがけなく扱いにくいことを発見する段階
三、あつかいにくい女房にまだ抵抗している段階
四、抵抗することの無駄、わずらわしさにやっと気づく段階
五、抵抗することを諦める段階
六、抵抗することのわずらわしさや諦めが心に重なって、自分の無力さを感ずる段階
七、無力感から劣等感、劣等感から漠然とした恐怖に至る段階
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まあざっとこんなものであることはすべての夫が身をもって実感している事実にちがいない。つまり初めから「こわい」のではなくて、扱いにくさに抵抗する「わずらわしさ」に夫は最初まけていく。この失地に女房族はノサバリ、夫をさらに追いつめて、恐怖感にまでもっていくといえるでしょう。
なぜわずらわしいか。それはいろいろな例がありますが、たとえばその一例として女房の反スウ癖をあげましょう。
反スウというのは言うまでもなく牛が昔くったものを口にもどして噛みしめることである。女房に叱られている時、世の夫で妻が牛の顔に見えないものがあるであろうか。
なぜなら彼女たちは現在、今の瞬間の夫の失策だけを怒っているのではない。彼が犯した三年前、四年前、つまり法律でいっても時効にかかっているような過去の過ちまで覚えていて、それを今日もクドクド、ブツブツくりかえすのです。「今日だけじゃありませんよ。去年の五月六日の夜だって、あなた同じことやったじゃありませんの。去年だけじゃないわ。三年前の八月十九日だって……」
こういう時の女房の過去にたいする記憶力のよさ。過去の失敗を一つ一つ胃袋からとりだしてもう一度カミしめてみせる執拗さ。モグモグ、モグモグ。まるで牛の顔のようにみえてくる。
もしかかる時、それを否定しようとかかったり弁解せんと試みんか、まるで油に火をつけたように去年や三年前が五年前、八年前の事実に飛火をしてキャンキャン、ワンワンわめきたてるのであるから、夫はこの場合、ふかく首を垂れて、「東京、横浜、大船、小田原、ベントウ、ベントウ」と東海道線の駅の名を心の中で一つ一つ思いだしながら、聞いているふりをするのが一番いい。
こうした諦めに似たわびしい気持、抵抗することの空しさを知るには結婚後二年の歳月を要する。それまではドタバタ、むだなあがきをやっているにすぎぬ。
だがこれではいけぬ。そこでぼくはヨーロッパ各国の亭主族がどういう方法によって恐妻から救われているかも調べてみたいのである。