パリは物価がたかいと聞きましたが、ベラ棒に物の値段がはねあがっているのでビックリしました。ちょっとした小料理屋で飯をくっても二、三千円ふっとぶのであるから、八年前の留学時代とは格段の差がある。だが三、四日もすると要領も次第にわかって馬鹿馬鹿しい外人相手のホテルから引越し、裏通りの旅館に手ごろな部屋を借りました。
十一月のパリは昼間は空が鈍色に曇り、その鈍色の雲の間から、まぶたに重いほどの微光が石畳の上に落ちてくる。夜になると、しずかに雨が降り始めます。
旅館の親爺は、映画でおなじみの喜劇俳優フェルナンデルを水でうすめたような顔をした男です。一ヵ月も宿泊予約をしたぼくは、この旅館にとっては有難いお客にちがいないから、親爺の愛想はなかなかよい。内儀は痩せた神経質な女で、たえず、
「ルイ、ルイ、またテレビをみている」
夫にガミガミ小言を言いながら働かせている。
「本当にあの人は怠け者でして」ぼくをみるとむくれた悲しそうな顔をして亭主のことをぼやくのである。テレビを手に入れて以来、夫はまるで七歳の子供のようにこのオモチャにかじりついて旅館の仕事をやってくれないと言うのです。
女房にどやされるたびにこの親爺は、片眼をぼくにつむってみせる。それから大きな尻をボリボリかきながら金槌や、ヤットコを持って客室の水道管をなおしたり、便所のタンクの掃除をしたりするのである。
「え? 叱られてばかりじゃないですか」そうぼくが笑いながら言うと、
「ああ、女というものは|扱いにくい《アントレターブル》もので……」
「フランスの男もやはり女房には頭があがらないのですかなあ」
「|とんでもない《メイ・ノンメイ・ノン》」彼は急に真剣になって首をふりました。