その夜ぼくは彼を誘って近所の居酒屋《ビストロ》で一杯、奢ることにしました。懐《ふところ》さびしい身ゆえに沢山飲まれるのは閉口ですが、この親爺のようなパリの平凡な男が女房をどのように取扱っているかを聞くのは一興であります。
「恐妻? そんなものはムッシュー、フランスにないやね」
親爺は人の奢った酒をさんざお代りした後、やっと勿体ぶって口を開きました。
「恐妻などちゅうのは要するにムッシュー、智慧のない男の言うことだよ。女房なんて結局ロバのように馬鹿で単純なものじゃないかね」
ぼくは洋の東西をとわず、女房とは愚鈍で頑固な動物にすぎぬという考えが、普遍的に通用する事を知ってホッと安心しました。日本にいる時は、なまじ反動的とか非進歩的文化人といわれるのが怖さに、女房をロバのように馬鹿な存在だとはとても発言できなかったが、パリまで逃げてくれば本心をそのまま発表することがそれほどこわくなくなってきた。
「ほう、女房とはそんなに馬鹿で単純かなア」腕をくみながらぼくが繰りかえすと、「そうだとも」親爺は葡萄酒で真赤になった顔を懸命にふりながら、「おだてればポプラの樹のようにつけあがるし、叱れば嵐のように荒れくるう。これが女房だよ。ムッシュー」
「だから、平和と静けさを好む男性は女房が面倒臭くてならなくなる。どうしたらいいんだろうかねえ」
「ムッシュー、それは頭だよ。智慧」彼はしきりに指で禿げあがった自分の頭を指さしました。
「男ア女より頭がいいんだからそれを使わにゃ……」
「だから使いかたを教えて下さいよ。もう一杯、酒を奢るから……」
「エ、ビヤン、アロウ。じゃ、お話ししましょう」
彼は生がきの中にレモンの汁を一滴おとして、それを肴に白葡萄酒を舐めながらこんな作戦を教えてくれました。
「ムッシューは独身かね、ああ、結婚している。じゃおわかりだろうが、女房の一番の弱味は自尊心だ」
「自尊心?」
「んだ。女房という奴は本当は男である夫に、劣等感をもっているからね。この劣等感を少しでも突かれるとわめきたてるのを、ムッシュー、知ってるだろ」
「知っている。知っています」
「逆に言えばね、女房は家の中で[#「家の中で」に傍点]亭主を馬鹿にできる時が一番幸福なんでさ」
ぼくは首をひねりました。というのは女房は亭主を尊敬できる時が一番幸福だ、という考え方もあると思ったからです。だがこの親爺はそんな考え方はエリザベス女王夫婦のような連中か、新婚ののぼせあがったばかりの若妻にだけ通用する話である、と親爺は頑張るのである。
「だからよ」彼は声をひそめ、「家の中では女房に自尊心は渡してやるのでさ。こちらをバカにさせておくのでさ」
この単純な方法をとってから、親爺は女房をたいへんうまくチョロまかしてきたのだ、と自慢しはじめました。
「たとえばだよ。ムッシュー、あんたも浮気したい時があるだろ」
「そりゃ……ありますね」ぼくはゴクリと唾をのみこんで肯いた。
「そんな時、女房に浮気をかくそう、かくそうとするから世間の多くの男は失敗するんでさ。かくすことは女房の自尊心をひどく傷つけるから、奴等、むきになって疑ってくるもんだ」
「じゃ、どうすればいい」
「女房に、自分の夫は女にはてんでモテぬ男だと、心から思わせて安心させるので……あっしがとった方法は、……」