とはいえ、かく申すぼくも連れてきたぼくの女房を放っておくわけにはいかぬ。大使館の連中、商社の人と同じように、女房のオーバをぬがせたり着させたりせねばならぬ場合がこの国では多い。その時の阿呆クサさ、恥ずかしさ、口惜しさは言葉ではいえぬほどである。
「憶えてやがれ」そのたびに心の中で、ぼくは叫んでいる。「憶えてやがれ。この野郎」
「いい気味だわ」女房もひそかに呟いているにちがいない。
だがパリで劇場や音楽会にくるたびにぼくにはいつも、二つの疑問が起ってくるのであります。それは、
(1)まず、白人の男はなぜこれほどキチョウメンに女房とつきあうのか。音楽会や芝居や映画その他、ありとあらゆる所にまで、女房を伴ってくるエネルギイは、どこからくるか。
(2)彼らは、なぜあれほど自分の女房の身の周りの世話をマメにやくのか。オーバをぬがせたり、煙草の火をつけてやったり——まるで従者のような態度をどうしてとるのか。
これは、日本人の男なら、だれしもが感ずる素朴なる疑問にちがいない。
第一の疑問(なぜ白人の男はキチョウメンに女房とつきあうのか)については一つの思い出があります。昨年、ぼくはソビエットのモスコーにいった。通訳の若いソビエットの娘に、うかつにもこんな打明け話をしたことがある。「ぼくは結婚しているが、夜になると一人で外に酒をのみにいく。日本の男は、女房などあまり連れて出ることはない」
この打明け話は、そのソビエットの娘にとってはひどくショッキングだったらしい。顔を赤くして怒った彼女は、これは日本人夫婦に愛情がないためだと思ったのであります。
だが日本人ならば、こんなソビエット娘の考え方がいかに阿呆らしいかはすぐ気がつくはずである。外に連れ出さぬから、夫が妻に愛情がないと思われてはたまらない。それは、女の論理であり、男にはさっぱり合点のいかぬ理屈である。はっきり言えば、われわれ、日本のやせおとろえた男性には、一日の労働のあと夜まで女房を外につれだすエネルギイがとてもないのである。疲れて、くたびれて、一人ぽっちになりたいのである。
この実感は洋の東西をとわず、亭主たる者すべて認める感情である筈だ。日本人であろうが、フランス人であろうが、この実感には変りない。にもかかわらず、白人の男が一日の劇務のあともなお女房のために勤めるのは、彼らがわれわれより女房に愛情があるからではなくて、体力的にわれわれ日本人より上まわっているためにちがいない。バターをたべ、牛乳をたらふく飲んでいるせいか、よほど、この国の食糧政策が岸政府のそれよりよいからにちがいない。
劇場の天井桟敷で、ぼくはしみじみとそう思いました。
だが、第二の疑問はこれとは少しちがう。白人の男は、なぜ自分の女房の身の周りの世話をマメにやくのか。オーバを着せたり、ぬがせたり、靴のヒモまで結んでやったり、従者のような、奴隷のようなまねをするのか。これは日本人の亭主であるぼくにも、とことん[#「とことん」に傍点]までは、どうもよくわからぬ事実であります。