ルリイ先生の第一課は、「女房の論理」から始まりました。女房の論理とは何であるか。いうまでもなく、それはすべての世の亭主が、仕事から戻ってきたとき、夜おそく帰宅したとき、日曜日の朝、毎日の食卓でクドクド、グジャグジャ、細君からきかされる説教、愚痴、叱責のことであります。
われわれ男性亭主には、これがたまらなくウルさく面倒臭い。ウルさく、面倒臭いから黙って新聞でも読んでいれば、「人のいうことを真剣に聞いていない」とわめきはじめる。といって多少でも弁解しようとすればそれこそ火のついたようにヒステリーを起す。いかなる亭主といえ——たとえ、エリザベス女王の夫エジンバラ公でさえ、この女房論理の地獄からまぬがれてはいない、とルリイ先生はいいました。
「女房の論理」を撃破するには、その論理の発生理由をわれわれ亭主はよく見きわめねばならぬ。どこから、あの機関銃のような涙混りの言葉がとびだしてくるのか、あの羊のウンコのように切れることのない説教が続くのか、その過程を男性は明晰な眼で調べておかねばならぬ。
ルリイ先生は、「彼女たちの論理」はこれことごとく「彼女たちが自分を悲劇的人物と思いこもうとする」女性特有の本能から出ているのだとおっしゃいました。つまり、平たくいえば女房という奴は何を与えてやっても、心の底では「アア、あたしは不幸な女だ。不幸な女に違いない。不幸な女でなければならぬ」そう考えているのであります。どんなに諸君が彼女にやさしくしてやっても、女房という奴は決して満足することはない。ビフテキのヒレ肉を食べさせてもらっても不幸、日曜日に諸君が無理をして台所の棚をなおしてやっても不幸。決して彼女たちの心の底にある不幸待望の欲望を消すことはできない。
だから——いや、それ故にこそ、女房のすべての論理はそれが諸君にたいする愚痴であれ、説教であれ、恨みの呟きであれ——ことごとく「あたしはあなたのためにこんなに不幸なの」ということを自分自身に立証することにあるのです。このことを世の亭主族と、これから結婚される若い独身男性はきもに銘じておかねばいけません。
では次に——。彼女たちはこの自己悲劇化の欲望を、どういう理屈を使って愚痴や説教を述べるでしょうか。ルリイ先生は壁にかけた黒板に、サラサラと次のような図表を書かれました。