学生時代、ぼくは自分の故郷が田舎だったから必然的に東京で下宿に入ったり、学生寮で生活したりした。木村と親しくなったのもそのころだ。
その時、気がついたんだがね、同じ下宿や寮にいると同居生活のウマのあう奴《やつ》とウマのあわない奴とがいる。だれかと同居するのがウマい奴と下手な奴とがいる。
同居生活のウマい奴というのは、一緒にいる相手に迷惑をかけない男のことだろうぐらいに君は簡単に考えるだろうがね。決してそんな単純なもんじゃない。
男の学生の下宿って、行ったことがあるかい。ぼくと木村とは、掃除なんて一度もしなかったからマスクをして寝ていたもんだ。動くとホコリが立つし、掃除をするのは面倒くさいのでマスクをして寝ていたわけである。洗濯なんかも億劫《おつくう》だったから、汚れものは押し入れに突っこんで新しいのをつけているうちに、彼の汚れものと俺の汚れものが一緒になり、その中からまだ使えそうな彼の猿股《さるまた》を俺がはき、俺の突っこんだランニングを彼が着ているという始末で——まあ、吐き気がするわ——と世の女性はいうだろうが、学生の下宿生活なんて大体そんなものだね。
こんな間柄だったが、彼は実に同居生活のウマい男だったなあ。つまり、邪魔にならず、こちらの神経に一向さわらんのだよ。
「君は実に、俺の同居人としては満点だったなあ」
この間、久しぶりに同窓会があったろ。あの時、木村にそういったら、
「うん」
とうなずいて、
「しかしね、俺だって初めからそうだったんじゃないんだぜ。自己訓練さ、学生生活でいろいろなよい経験をやったが、友人と同居生活をしたことも、後になって女房との結婚生活上、役立ったよ」
とつぶやいた。
彼は下宿や寮で同居生活を学生時代にやった人間は、赤の他人と同じ部屋で生活をするコツをおぼえるという。そのコツとは、どんなに親しくなっても、ある線以上は同居人の中に入らぬことだという。
その線をどこにきめるかは相手次第、各人各様だが、それはこの同居生活を幾度かくりかえしてみると、だんだんわかってくるのだという。
「だからね」
彼は近ごろの花嫁学校や花嫁修業は、やれ花の生け方、料理の作り方、カロリーの計算ばかり教えて、肝心《かんじん》の夫婦生活の基本となる同居生活のコツをしこまないのは、はなはだ片手落ちだと主張しはじめた。
「そりゃ、カロリーも大切、生け花、お茶も結構だよ。しかし夫婦というのは、最初は俺たちの学生時代と同じように、昨日まで生活を共にしたことのない人間が、寝起きを共にすることじゃないのかね」
「そりゃ、そうだ」
「だから、やはり同居生活のコツをお互いが守ることが必要だと思うんだ。とんでもない、夫婦とは愛情で結ばれているんだから普通の同居生活とは違う。そう考えるのは過信というもんだ。それにね、普通の同居生活では相手がイヤになれば、ハイ、サヨウナラといって下宿をかわることはできるが……」
「結婚生活じゃ、そう簡単にはいかん」
「だろう。だから、余計、このコツをお互いが知って、それを守ることが必要だ。俺はね、娘が一人いるんだが、年ごろになったら地方の大学に送って、そこで寮生活をさせようとさえ思っている。それがあるいは、よい花嫁修業になるかもしれんから」
俺は彼のいうことも確かに一理あると思った。胸に手を当てて考えてみると、そう、学生のころ、俺も同居生活のコツというのをいくつか、身をもって学んでいたようだ。
それは何だったか。ちょっと列記してみようか。
[#ここから1字下げ]
(1) 同居人のものを承諾なしに見たり調べたりしないこと。
[#ここで字下げ終わり]
たとえば、同居人の引き出しを勝手にあけたり、その洋服のポケットを調べたりすれば、必ずケンカが始まるのは当然だ。
[#ここから1字下げ]
(2) 金銭はもちろん、その他の品物を借りることはあっても、すぐ返すこと。
(3) 彼の身内、故郷、親兄弟のことは、どんなに彼が悪くいっても、調子を合わさないこと。
[#ここで字下げ終わり]
理由は簡単だ。彼には悪口をいう権利や理由はあるが、こちらにはない。それにどんな人間でも自分の身内の悪口をいわれるほど腹のたつことはない。
[#ここから1字下げ]
(4) 万一、口論など始まった場合は、いつまでも我《が》を張らず、すぐ、どちらかが折れること。
[#ここで字下げ終わり]
同居して口喧嘩をすれば、その傷は非常に深く感じるものである。傷口の深くならぬうちに、出血をとめるのは当然ではないか。
たった四ヵ条だ。これさえ守れば、俺はたいていの人間とは同居できるのだと、学生時代に下宿生活をやりながら考えていたようである。
だが、世間を見わたしたところ、多くの夫婦の中には、普通の同居人たちが意識的にせよ、無意識的にせよ守っているこの四ヵ条さえ、お互いのルールとしてはいないのではないだろうか。
夫婦であるからという口実の下に、夫に来た手紙や夫の日記をひそかに読む妻がいかに多いことか。夫のポケットを調べる妻はどんなにいるだろう。
その時の自分のコソコソした、蛇のような目を考えただけで、自分がイヤにならないだろうか。
夫婦だからという口実の下に、妻の兄弟の悪口をいう夫のいかに多いことか。
また、夫の父母の悪口をいう妻のどんなにいることか。
夫婦だからという口実の下に、夫婦喧嘩を徹底的にやりつづける馬鹿もいる。
夫婦だからという口実の下に……もう、よそう。夫婦とは、その原型はやはり一つ家に寝起きを共にする同居生活だという木村の言葉は、ある意味で正しいとぼくは思う。