以前、女房の効果ある泣き方について書いた。夫が浮気などした場合、無理難題をもちかけてきた際、ギャアギャア、ワアワア、泣きわめくのははなはだ効果がない。黙って夫の顔を見上げホロッと一しずく、涙を落とすのがいちばんよろしいと言った。
今日は、甘え方について、教えん。
わが若い友人Mの細君は、ときどきわが家に来て、こうこぼす。
「何が何といったって、うちの主人が所嫌わず家の中でおならをブウブウするほど、いやなことはないわ。あれはどうにかならないのかしら」
婚約時代には彼女の前では、一見紳士風、女性を大事にする主義であると言い、立ち小便はもちろんのこと、おならなど彼女の前で一度もしたことのないMは、結婚するとガラリと態度が変わった。あたり構わずブウブウ、ブウ。細君がなじるとニヤッと笑って、
「出もの、はれもの、所、嫌わず」
てんで相手にしてくれない。
私はその話を聞いて、この細君がいささか気の毒になり、M君に直接会ってたしなめることにしました。
夏の夕暮、会社から帰宅する彼をつかまえて、渋谷のビヤホールに誘った。ビヤホールのテレビでは相撲の中継をやっている。塩気のよくきいた枝豆でジョッキをグッとやりながら、
「と、いうわけなんだ。君が家の中でおならを平気でやることについて、君の細君は随分こぼしていられたぞ」
そう説教をしはじめると、
「先輩、どうも、そんなクダラン話を美智子の奴、もちこんですみません。しかしね、ぼかア、このおならを別に出したくって、出しているのではないんです。出すべき必然的な理由があるからこそ、出しているんです」
はなはだ不思議な答弁をする。
「出すべき必然的理由。それは一体、君何かね」
M君は、口についたビールの泡を掌でぬぐいながら話しはじめた。
結婚後、気づいたのだが、女というのは嫁さんになっても、相変わらず、こちらの背中にジンマシンが起きるような甘え方をする。こちら夫というものは、なるほど、恋愛中、婚約中ならそういう甘え方もされれば、
「かわいいな」
「うれちいな」
そう思うが、結婚してしまえば、女房はいわばツリあげた魚。煮て食おうが焼いて食おうが、こちらの勝手だ。それに一緒に生活すれば、今まで見なかった相手の足の裏がどんなに真っ黒いかもわかるし、昼寝の時、鼻から提灯《ちようちん》だして寝ている顔も知っている。
そんな女房が平生は非常に現実的であるのに、秋の夜、月が縁側にさしこんでいようものなら、
「まア、いいお月さま。あなた、婚約のころ一緒に海岸歩いたの、思いだすわね」
急に猫が風邪を引いたような声をだしはじめ、体などすり寄せてくる。こんな時ほど夫にとっては、照れ臭く、オッ恥ずかしく幻滅的なものはない。
「先輩、この感覚、わかりませんか」
「わかる。わかる」
「おう。わかってくださいますか。さすがは先輩だ。だから、ぼく、そんな時オッ恥ずかしさのあまり、美智子の前でブッと一発やらかしてやるんです」
「わかるなあ。その気持」
「阿呆くさいことは止せという意思表示です。女房のくせにデレデレ夫に甘えるなという警告です。われわれ男性にとってセンチになっている女房ほどうそ寒いものはありませんからなあ」
私には目に見えるようだった。たとえば夕食後、ラジオで急にあのムード音楽という奴がなりはじめると、編物をしていた美智子さんが急にうっとりとした顔となり、
「あなた、踊らない?」
途端にヘキエキしたような表情でM君はブブッと一発やらかす。美智子さんは豆鉄砲でもくらったような顔になり、ムード音楽のムードはすっかり吹っとび、
「色気ないわ、あなた」
「そうかね。ああ、くたびれた。眠るとするか」
これで万事、おしまいである。私には、M君がブブッと一発やる気持が手にとるようにわかる。
「日本人の男は、外国人の男のように女房からベタベタされるのを好かんのです」
「まったくだ」
「女房も自分自身をふりかえって甘えてもらいたい。風呂上がりに、頭に仏壇の金具みたいなのをつけた女房が、あなた、おどらないと言ったって、おどる気もしませんよ」
「同感、同感」
「まして結婚一、二年ならともかく、十年もたった女房に変な声を急に出されると、背中から水かぶせられたようだ。ねえ、先輩」
「同感、同感」
「女房というものは、こうした時、甘やかさぬ亭主を愛情がないと不平を言うが、それはとんでもない話だ。日本男子の愛情表現は、外人のようになでたり、さすったりばかりするものではなく、黙っていてもジインとわかる時には伝わるような愛情を、奥底にひめたたえているものでないですか」
「然《しか》り。その日本男子の愛情の出しかたを非難する文章を、近ごろの婦人雑誌などでチョクチョク見るが、ああいう文章を書く手合は、大体軽薄な馬鹿野郎が多いようだ」
「そうですか、先輩。先輩がそう言ってくだされば、ぼくも今後、安心しておナラをすることができそうです。やりますぞッ。ぼかア」
三杯のビールにすっかり機嫌よくなったM君は意気軒昂。右肩をあげて家に戻っていった。私は、ああ自分はくだらん賛意を示したと思ったが、彼の言うのも一理ある。みなさんはどうお考えでしょうか。
M君は今日も家でブウブウ、おならをしているでしょう。ブウブウ、ひょっとすると彼の家はおならで充満しているかもしれぬ、みなさんのお宅ではご主人はおならをしませんか。もしすれば、彼は日本流にいい亭主です。しなければ彼は外国流にいい亭主です。