君に今日、一つの宿題を出そう。
宿題といっても本当にあった話だ。会社のT君、君も知っているだろう。奥さんと次第にまずくなり、今は別居しているT君のことだ。
あの夫婦が別居したとき、君はびっくりしたように、
「Tさん。どうして別れたのかしら、あんなに立派な奥さまだったのに」
そう言ったのを覚えているか。君の言葉どおりT君の奥さんは、だれの目から見ても立派な奥さんだった。
その立派な奥さんと彼はなぜ別居したのか。彼に情事でもあったのか。いや、あのT君はそんなことのできる男じゃない。夫婦間の心理は身の上相談の女史たちが簡単に解決するような手軽なものじゃない。あの夫婦にも、だれにもわからぬ心のたたかいがあったのだろう。
ところが昨夜、ぼくはT君の口からその心のたたかいの一部を聞いた。昨夜、宴会があったろう。あの帰り二人で新宿で一杯やったんだ。そのとき、彼は酔いのあまりか、急にこんなことを言いはじめた。
「潜水艦というのは狭い艦内にすべてを収容するためにむだな空間がないそうですね」
「そうだってね。非常に合理的に中を作ってあるらしいな」
なんのために彼が潜水艦の話などをしはじめたのか、こちらには、はじめピンとこなかった。だが……。
「むだがない。合理的すぎるってイヤなもんだ」T君は吐出すように言った。「息がつまりそうになる」
「だろうね」
「女にだって、むだを決してしない女がいますよ。そんな女と結婚してごらんなさい。毎日、毎日、息がつまりそうになる」
ぼくは彼が別れた細君のことを言いはじめたのだなと、やっとわかった。こちらには何も口に出しようのない話だ。
「私の女房がそうでした。他人の目から見ると実に良妻でしてね。いや、ああいうのを世間は良妻と言うんでしょう。女子大の家政科を出たせいもあるでしょうが、実に家事を合理的にやりましてね。家の中はチリ一つない。ものは、すべてキチンと片づけられている。食事も栄養を中心に作られる」
「結構な話じゃないか」
「そうでしょうか。だがそのキチンと片づけられた家の中で、会社から帰ってステテコで寝ころんでタバコの灰を畳に落とすことさえ、私はできなかったんです。別にあいつは口には出して言いませんが、目で私の男としてのだらしなさを非難してるんです。たとえ夫でも無作法なこと、しまりのないことが、彼女の神経にいちばんこたえるようでした」
「そりゃあ、君も疲れたろうな」
「わかるでしょう。夫が食卓でおならをすることさえ許してくれぬ妻には、やはりこちらが疲れますよ。彼女の家計簿はいつもきちんとしてました。私への小づかいだって一定の額がきまってましてね」
「決してそれ以上はくれなかったんだね」
「ええ。彼女の目的は少しでも貯金して、その貯金で株を買って、株をふやしながら最後に小さいながらも家を建てることでした。
なにしろ、私たちはアパート住まいでしたからね。その目的を彼女は口ぐせのように私に言いきかせました。それを聞くと、私だってむだづかいはできなかったんです」
「君たちは、お子さんもそのために作らなかった」
「ええ。彼女に言わせれば、ちゃんとした経済的基盤がないのに子供を作るのは非合理だというんです。ぼくは、一人、子供がふえたって何とかなるさと言いつづけたんですが、子供より家を先に作るべきだという妻の合理主義はもっともですしね」
「そして、その家ができたのは」
「一昨年ですよ。小さいけど妻の設計でうまくできた家でした。むだのない、合理的な家でした。まるで妻とそっくりの家でした。その家にはじめて入った日、ぼくは得意そうな女房の横で、たまらない息ぐるしさを感じたんです。それがすべての始まりでした」
T君はそう言い終わると、まだ酒の少し残っている杯を、じっと見ながら一人で何かを考えこんでいるようだった。
(わかるなあ)
ぼくはそう言いかけて思わず口をつぐんだ。
「帰ろうか」
「ええ帰りましょう」
彼と別れたあと、ぼくはつくづく夫婦の生活とはむずかしいものだと、いまさらのように考えこんでしまった。
君もそう思わないかい。いったい、悪いのはT君なのか。それとも奥さんだったのか。奥さんには奥さんとしての言い分が——いや、彼女は今でも自分がT君にとって良妻だったと信じきっているだろう。
そう思うといったい、こういう夫婦はどうすればよいのだろう。ぼくはこの問題を君に今日、考えてもらいたいと宿題として出したんだ。