ごらんにならなかった方のために簡単なすじ書を申しますと、ジェルソミーナという一人の白痴にちかい女(この白痴にちかいという言葉に注意しておいてください。その理由はあとで書きます)が、ザンバーノという粗暴な男に拾われて、村から村、町から町を旅して歩く辻芸人にさせられます。芸がわるいと彼女は男に罵られ、いじめられ、叩かれます。彼女はこの仕打ちにたえかねて、ある日、彼から逃げていってしまう。
男は彼女を失って、初めて、この女がどんなに自分にとってかけがえなく大事なものだったかを知ります。一方、ジェルソミーナもまた、自分がいなければ、辻芸のできぬ彼のところにやっぱり、戻ってしまうのです。そしてふたたび、男のあとをトボトボとついて村から村へまわる女の姿が画面にうつしだされます。
やがて彼女は病気になった。役にたたなくなった女をザンバーノは山の中に棄ててしまう。女は冬のさびしい陽のあたる道で一人で死んでいく。
男のザンバーノはその後、どうしたか。映画ではそれを別に詳しく描いていません。ただ、ラストのシーンで、男が夜の海べりで自分の棄てた女を思い、泪《なみだ》を一回ながす場面がある。それで終りです。
私はこの映画をみて、これほど古今、東西、無数の男女の人間関係を原型化したものはないと感動しました。男と女とはいつの時代にあっても、このような形、このような関係をとってきたし、今後もとるでしょう。
この映画を見たあと、私は友人の作家、安岡章太郎氏と、こんな話をしました。
「あのジェルソミーナはキリストを女性の形にしたものだな」
「うん、そうだ。だから、俺たちにはむつかしい」
と安岡もうなずきました。
先ほども書いたように、この映画の監督がジェルソミーナをなぜ、白痴にちかい女にしたかの理由はここであきらかです。ドストエフスキーは彼がもっとも理想的人間(つまりキリストにちかい男)を『白痴』という題で書きました。そういう大傑作に及ぶはずもありませんが、私も自分のキリストを『おバカ[#「バカ」に傍点]さん』という同じような題で小説にしたことがある。
こうしたキリスト教的感覚に裏うちされたこの映画は、実は安岡の言うように本気でみれば、日本人のわれわれにはムツかしい作品ですが、もし私がさきほどから申しているように、男と女との原型的関係を描いた作品と見るならば、われわれにもわかるはずです。
大事なところは次の点です。ジェルソミーナはザンバーノといっしょにいれば自分の人生がますます不幸になると知って逃げだした。しかし、やはり彼女は、彼のところに戻ってきた。そしてとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と、そんな男のあとをついて道[#「道」に傍点]を歩いていった。
今ように言えば、こんな非近代的で間のぬけた人生を若い女性は選ぶまいと思うでしょう。ジェルソミーナを文字どおり間抜けか、「白痴」か「おバカさん」だと思うでしょう。しかしその白痴の女、おバカさんの女にわれわれはなぜあの映画を見たとき、感動したのでしょうか。理由は簡単だ。本当の愛というものは白痴のようでなければならず、おバカさんのようでなければならぬことを、われわれは知っているから、その本当の愛を実現したあの女に感動したのである。そしてあなたたち女性はわれわれ男とちがって、この愛を知っている。どんなに近代的なことをおっしゃっても、女性は本質的にジェルソミーナのような愛の生き方をいざとなればしてしまう。男を封建的とか横暴とか批判されても、愛の世界では女はいつもジェルソミーナである。そして愛の世界では男はいつもやくざで粗暴なザンバーノでしかない。その原型を『道』は残酷なほどはっきり描いているのです。
『道』という題は人生を意味します。黄昏、粗暴な男がさきだって歩き、そのうしろを泣きじゃくりながら女がついていく。あの映像の意味はわれわれの人生の映像だと私は思う。