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ぐうたら愛情学116

时间: 2020-10-10    进入日语论坛
核心提示:愛のはじまり ジェルソミーナがザンバーノのところに戻ったのもこの港の感情からだったと言えましょう。自分がついていかねば、
(单词翻译:双击或拖选)
 愛のはじまり
 
 ジェルソミーナがザンバーノのところに戻ったのもこの港の感情からだったと言えましょう。自分がついていかねば、あの男を世話する者もいないという心情が、彼女をして、男のところに帰らしめたのである。そして男のうしろをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]とついて歩くあの姿をつくらせたのである。港のかわりにせめて親船の形をとったのであります。
 あなたたちはこうした女の姿勢をたまらなくみじめだとお思いでしょう。それでは男が勝手すぎるともお考えでしょう。しかし今、私は倫理的判断をここでやっているのではない。男と女との関係は原型的にこうだと申し上げているのにすぎません。そして男だってザンバーノが泣いたように自分が棄てた港にたいして言いようのない苦しさを感じることのあるのも確かです。
 あなたがたがまだ若く、恋愛をされているならば、このようなイメージを御自分と恋人との間にお持ちにならぬと思います。自分と彼とが一隻の船に同乗するのだという夢が恋愛というものでしょう。しかし私はいわゆる恋愛のなかに本当の男女の関係はないと考えています。本当の男女の関係が出現するのは夫婦になってからであり、そして妻として生きてこられた女性ならば、おそらく今、私が申し上げた港と船のイメージはわかっていただけるのではないか、と思うのです。
 こういうイメージに封建的だの、男性にばかり都合がいいの、という批判を加えるのは、阿呆でもできます。しかし女性が愛の世界で立派なのは彼女がいつも港である姿勢を持ちつづけてきたからではないでしょうか。ザンバーノのあとをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]とついていくジェルソミーナの黄昏の姿を持っていたからではないでしょうか。
 私はさきほどこのジェルソミーナの姿勢にキリスト教的感覚があると言いましたが、それは、キリスト自身がザンバーノという男に象徴された人間のあとをいつもとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]ついていったからです。キリストはジェルソミーナがザンバーノにいじめられるように、人間からいじめられた。しかし彼はその人間を棄てなかった。そのあとをとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]ついていった。これら人間といっしょにいれば自分が十字架というあの惨めな死をとげることを百も承知しながら、彼等を棄てえなかった。それをもし「愛」とよぶならば、とぼとぼと男のあとに従うジェルソミーナはまた「愛」なのであります。
「愛」とは魅力あるもの、美しいものに心ひかれることではない。美しいもの、魅力あるものに心ひかれるのは「情熱」といって「愛」とは関係のないことである。「愛」とは棄てないことから始まる。こういう「愛」ができたのは今日まで女性だけでした。私が女性を尊敬するのは彼女たちにはやくざなわれわれ男性の理解しえぬこの黄昏の港と黄昏の道を歩く姿が象徴的にあるからです。私はこの男と女の姿が今日まで存在したように、明日も永久に存在すると思います。私はそれが女にとってみじめな哀しいことだろうと思いますが、また女の崇高さはそういう点にあるのではないかとも思います。
 おそらくこの文章には反発される読者も多いと思います。私は読者が感情や怒りでこの文章を読まれずに、客観的な眼で私に返事を書いてくださることを望みます。投稿欄ででも、私はまたお答えするでしょう。
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