ほとんどすべての夫が自分の妻にたいしてばく然ともつ気持は、妻の存在が重いという感じである。重い……というのは適切ではない。むしろ重くるしいといったほうがよいかもしれぬ。
この重くるしいという感じのなかにはいろいろな要素がある。だがそのうちでももっとも大きな要素は解放感がないという気持なのだ。女は結婚によって男以上に急速に変化していくものである。男は独身時代も、夫になっても、父親になっても本質的にはそれほど変化しない。変化したとしても、それは徐々に、少しずつ変わっていくのである。
だが、女性の場合は、娘から人妻になったとき、驚くほど早く変ってしまう。さらに人妻から母親になるとまったく脱皮してしまう。私はある女友だちを持っていた。彼女が結婚してから十日目に私は歩道でばったりと出会ったことがある。すでにこの女の顔はもう娘ではなく人妻という以外、他に形容のできぬほどの変り方をしていた。さらに彼女が出産した翌日、私が見舞にいくと、そこには昔の面影はまったくみとめられぬ、ひとりの母性が、ベッドの上で赤ん坊に乳をふくませていたのだった。この三段階の転身は、まるで根のおりていく隠花植物を私に連想させた。娘から人妻へ、人妻から母親へと、彼女はズズッと根をおろし、最後には押しても引いても動かぬあの女房という存在に成り変わっていたのである。このような急激な転身や脱皮は男の場合、ほとんど不可能である。彼は夫になっても、父性になってもそれは形式的な変化だけであって、芯は結局、いつも同じなのだ。
このこっけいな男女のちがいは、しかし結婚生活のなかで思いがけない裂け目を起すのである。娘から人妻、人妻から母性へと鮮やかな転身を行なえる女は、この変化を毫も疑いはしない。のみならず彼女は夫にたいしても自分と同じような急速な脱皮を要求し、それを当然だと思いこむのだ。
このときである。夫はあるいいようのない息ぐるしさを妻に感じはじめる。妻はもはや家庭のなかに深い根をおろして押しても引いても動かない。彼女の感覚、彼女の倫理はすべて子供たちの母であり、家庭の主婦であることからでている。そして彼女はこの感覚と倫理とで夫を判断しはじめる。いいかえれば彼女は夫を、まず夫としてしか、子供たちの父親としてしかながめない。彼女は彼をまったくその範囲内にとじこめ、それ以上、彼がはみでることを本能的にきらうのだ。
だが男とはなによりも自分が他人から限定されることをいやがるものだ。妻の視線、妻の眼は彼を夫であり父親であり、家庭の責任者である人間として無言のうちに要求している。その視線は社会的な道徳によってささえられているだけに、男にとってはさらに重圧感を感じさせる。
私がさきに例としてあげたある男は、その妻がいわゆる良妻賢母であるために「まるで息ぐるしい潜水艦のなかで生活をしているようだった」と告白していたが、それは妻が非の打ちどころがないだけに、かえって彼女の視線が要求するものに重い束縛感を感じたにちがいないのだ。
もちろん、こうした息ぐるしさを感じることは女性の眼から見れば男のわがままとずるさとしてしかうつらないであろう。だが私はここでモラルを述べているのではなく、男性の誰もが持っている本能についてしゃべっているのだ。男性というものにとっては、女性とちがって、自分の所有しているいろいろな可能性を奪われるときほど苦しいことはない——この本能についていっているのである。