「女王!」
ノーブラタンクトップにミニスカートという露出系ファッションでホーチミンに現れた女王様を見て、志麻子さんは叫んだ。
「その格好で街角に立っている御姿、とても日本人観光客には見えません!」
「じゃあ、何に見えるんですか?」
「どっから見ても、ホンダガールです!」
ホンダガールとは、この街で春をひさいでいる女たちのことである。さては女王様、売春婦に見えたか。しかし、四十六歳の売春婦とは、なかなか渋過ぎる。しかも、オッパイは作り物だし、子宮はほどなく撤去される予定。これじゃ、女というよりニューハーフではないか。
「志麻子さん、私はホントに現役のホンダガールに見えますか」
「見えます、見えます。正直言って、女王の外見は、この国では三十歳そこそこくらいにしか見えません。暑くて貧しい国は、女が老《ふ》けるのも早いのです。ベトナムでなら、女王はまだまだ売り物に見えます」
「しかしですね、志麻子さん。ご存知のとおり、私のこのオッパイは偽物ですし、このうえ子宮まで取ってしまったら、私は女と言えるのでしょうか。もしもうっかり私を買ってしまった男は、女と間違えて四十六歳のニューハーフを買った気分になるのでは?」
「なるほど。しかも女王の場合、その魂も、女というよりオカマですからね」
「そうなのです、志麻子さん。私はずっと自分が女であるという自意識の居心地の悪さに戸惑っていました。しかし、ここに来て、私の身体はついに男でも女でもないモノになりつつあり、それは喪失というよりむしろ、自分の本来の姿にどんどん近づいていってるような気がするのです」
「女王はついに、女を脱却してオカマになる日を迎えたのですね。サナギが蝶になるように(笑)」
「ところが、それでも姿かたちは女なので、こんな私にも女としての商品価値は生じる、と。そうすると、志麻子さん、女とはいったい何なんでしょう。子宮がなくても、オッパイが偽物でも、女の形をしていれば、それは女であると言うのなら、女とは結局、単なるビジュアルだということになるではありませんか」
民よ、これである。女を女であらしめているのは、単にオッパイだの顔かたちだのといったビジュアル的な記号に過ぎない……このように考えれば、「母性」とか「女性らしさ」とかいったものが「女」を形成しているというのは、単なる幻想ではないか、とさえ思えてくる。だって女王様は子宮摘出によって母性を放棄しようとしているし、女性らしさの象徴であるオッパイも偽物だし、そのうえ内面的にも女らしいとは言い難いのだが、それでもやはり「女」として流通しているのだから。
後に、別の友人が、このように語った。
「医者の話によると、最近は子宮摘出で女を喪失すると感じる人は少ないが、乳癌などで乳房を失うケースのほうが女の喪失感に悩む人が多いそうです。子宮の象徴する母性より、乳房の象徴する女性性のほうが重要になってるんですね」
そのとおり。しかも、その女性性とはビジュアルの問題なのである。なんだ。女ってコスプレなんじゃん。