最近、知り合いが亡くなった。自殺だそうだ。その人とは二回しか会ったことがない。一度は仕事で、二度目はパーティ会場で軽くご挨拶をしただけである。彼女が何故亡くなってしまったのか、女王様にはわからない。ただ、その報せを受けた時は、さすがに血の気が引いた。
他人の死について、あれこれ詮索するのは不謹慎である、ましてやおまえは本人と個人的な付き合いもない人間ではないか、おまえに何がわかるのだ、という謗《そし》りを受けることは覚悟のうえで、それでも女王様は彼女の死の理由について考えずにいられない。たとえ付き合いはなくとも、顔見知りの人の若すぎる死は、リアルな衝撃だ。自分も明日死ぬかもしれない、という想いもあり、また、私が死なないのは何故だろう、という疑問もあり、「自分研究家」である女王様は、知人の訃報を通じて、またもや「自分の謎解き」に熱中してしまうのであった。
こんなにも「自分」に拘泥しておりながら、いや、拘泥しておればこそ、女王様の悲願は常に「自分から離れること」である。いかにして自分に対する執着から逃れるか、というのが、女王様の行動を貫くテーマであった。ブランド物で身を固めるのも整形手術で肉体改造するのも、女王様にとっては「コスプレ」の一形態であり、また、それを他人事のように描写しようとする傾向も、「いっそ自分を他人にしてしまえ」という願望に根ざした行為だった。
女王様は「別人になりたい」のではなく、「他人になりたい」のだ。別人になっても「自己愛」からは逃れられないが、他人になってしまえば厄介な「自己愛」は発動しにくくなる、と、女王様は考えたらしい。らしい、と言うのは、どうもそうとしか思えない、という程度にしか解析不能であるからだ。
女王様の試みがどこまで功を奏したのか、自分でもよくわからない。しかし、自分を完璧な他者にしてしまいたい(無理だけど)、自分の肉体を自意識から切り離された「物体」にしてしまいたい、という願望は、突き詰めていけば「死体になりたい」という願望に行き着くのかもしれず、そんな結論に行き着いてしまいそうな自分に密かな不安を抱いていた矢先に、その人の訃報が舞い込んだのだ。
どうして、そっちに行っちゃったの? 何があなたの背中を押したの?
尋ねたい相手はもはやこの世にいなくて、だけど、女王様はついつい尋ねずにはいられない。
あなたは自分であり続けることに疲れちゃったの? じつは、私もずっとそれが苦しかった。自分のことを赤の他人と思えたら、自分のイタさや滑稽さを指差して笑えたら、どんなに楽になるだろう、と、いつもいつも思っていた。「自分らしく生きたい」と、人は言う。確かにそれは大切だけど、「自分らしく」の「自分」って何よ、と考えた途端に、あてのない「自分探し」にハマってしまう人も多い。だけど結局は、私たち、「自分らしく生きる」なんて苦し過ぎてできないんじゃない?
探し当てた「自分」はゴミだった、というのが、女王様の結論であった。捨てられないゴミを抱えて、私は今日も生きている。