先日、NHKの番組収録前にメイク室でメイクをしてもらっていたら、テレビで保坂尚輝(現在は改名して、保阪尚希)の離婚記者会見をやっていて、これがなかなか面白かった。
保坂尚輝は妻の高岡早紀と「夫婦であることを解消」するべく離婚に踏み切ったワケであるが、彼らは夫婦であると同時に二児の両親なのであり、「夫婦であることは解消できても、両親であることは解消できない」との理屈から、「今後も親子四人でひとつ屋根の下に暮らし、家族としての生活は続ける。ただ、離婚したから、自分と高岡早紀は夫婦ではないのだ」と、宣言していたのであった。
なるほど、と、女王様は感心した。保坂尚輝にとって「夫婦」とは「男女のステディな関係」であり、それを解消してもなお「家族」ではあり続けられる、と、いうことなのだ。これは非常に明確な「夫婦」と「家族」の定義づけであり、彼らがその定義を共有している限り、彼らの家族関係には確かに何の支障もなかろう。保坂尚輝の言いたいことは女王様には非常によく理解できたのであるが、どうやらワイドショーのコメンテイターや芸能レポーターにはまったく「理解の範疇外」であったらしく、スタジオでは出演者全員が、「何が言いたいのか、さっぱりわからん」という結論に達していたのであった。
愚民どもめ、と、女王様は思ったね。あれほど明確な保坂の説明が理解できないのは、おまえらが今までに「夫婦とは何か」「家族とは何か」ということに対して、自分なりの定義づけを怠《おこた》ってきたからではないか。何となく夫婦になって、何となく家族になって、もはや夫婦間に男女のエロスがなくなっても「だって、夫婦なんてそんなもんでしょ」と深く考えもせずに納得してきた……そのような浅薄で怠惰な生き方をしてきたからこそ、おまえらには保坂の言葉が通じないのだ。記者会見の保坂尚輝を評して、「一生懸命なのはわかるが、言葉が下手で、きちんと説明できてない」などと、まるで保坂がバカだと言わんばかりのコメントをした出演者もいたが、バカはおまえだ、恥を知れ。
NHKの番組に出るようになって、毎週、「夫婦とは何か」「家族とは何か」について、否応なく考えさせられる。たとえば先日のゲストは作家の藤田宜永・小池真理子夫妻であったが、彼らの「夫婦の情愛と男女のエロスは別。自分たちは家族として夫婦の情愛を育てているが、男女のエロスはもはや存在しない。しかし、男女のエロスなしでは生きていけないので、お互いに恋愛は家庭の外でしましょう、と決めている」という発言は、先の保坂尚輝とはまた別の「夫婦観」「家族観」で、大変興味深いものであった。
この問題に関心のある方は、ぜひ、藤田・小池夫妻の回と併せて保坂尚輝の離婚記者会見を観ていただきたいと思う。夫婦の定義とは本人同士が決めることであり、それが共有できていれば夫婦はどんなスタイルでも良し、ということが、はっきりわかるからだ。
保坂尚輝は「夫婦は男女」と定義したから離婚に至った。藤田・小池夫妻は「夫婦は男女でなく家族」と定義したから結婚生活が続いている。どちらが正しいという話ではなく、定義することが大事なのだ。