脳と遺伝子について取材させてくださった生田氏が「言葉の重要さ」を説いて女王様を感動させて以来、今まで無造作に使っていた言葉の定義や概念を改めて振り返るようになった。
前回、保坂尚輝の「夫婦観・家族観」について述べたが、これもまた「夫婦」「家族」という言葉の定義について考えさせられるエピソードであった。
我々は、じつに無造作に曖昧に「言葉」を共有している。相手方と自分とでは、その言葉の定義がまったく違うかもしれないのに、それを確かめもせずに「わかったつもり」になっているのだ。だから今回のように、保坂にとっての「夫婦」の定義が自分の「夫婦」の定義とずれていると、「ああ、この人は『夫婦』というものを、このように捉えているのか」と考えることすらせずに、「言ってることがわからない」と切り捨ててしまう。本当に、バカだ。このような現象こそを養老孟司氏は「バカの壁」と呼んだのではないかと思うが、違いますかね。
そもそも言葉の定義を怠り、無造作に無神経に言葉を使う者の脳内では、その言葉の表す概念自体が大雑把で乱暴である場合が多い。たとえば、ひと口に「家族」と言ってもさまざまな形態があるワケで、どれが正しいとも健全だとも言い切れないものだと思うのだが、それを深く考えることもせずに「家族とは、両親が揃っているのが普通である」という単純な思い込みのもとに「やっぱり母子家庭で育つと子どもの人格が歪むのだ」などと決めつける人がいたりして、女王様を大いに憤慨させるのであった。
両親が揃っていても、健全とは言えない家族もあろう。家族とはポーカーゲームではないのだから、これこれのカードが何枚揃っているからOK、というようなものではないはずだ。他人の家庭環境や生育歴を根拠に何かを述べるのであれば、まずは「どのような家族が健全と言えるのか」という問題を明確にすべきではないか。なのに、それを怠って、「あの人が変人なのは、家庭環境が不健全だからだ。だって、あの人は母子家庭だもの」などと簡単に言い切るその乱暴さ、その概念の貧しさに、女王様は絶望する。
言葉は「神」なのである。言葉を無造作に使い、偏見に満ちた概念を平気で垂れ流すのは、罪悪だとすら思える。特にメディアに携わる者は「言葉」と「概念」の扱いに細心の注意を払うべきであるのに(何故ならメディアの影響力は本当に強く、人々の無意識なる偏見をうっかり育ててしまうからである)、テレビ関係者の多くはそれをじつに平然と怠るのだ。
保坂尚輝は記者会見の際、「自分は幼少期に両親と死別した」と語っていた。そのコメントを、今回の保坂の「離婚」と「独自の家族観」に繋げて批評した人間がいたかどうかは知らないが、もしも「保坂さんは恵まれない家庭環境に育ったから、夫婦というものがわかってないし、家族観も歪んでいるんですね」などとしたり顔で発言したコメンテイターがいたとしたら、そいつは日本一のボンクラだ。二度とテレビに出してはいかんと思うね。
ところで保坂の布袋批判もまた痛烈であった。女王様は今回、かなり保坂尚輝を見直したなぁ。