ある種の女にとって恋愛は、どうしていつも苦しいものになってしまうのだろう。おそらく、と、女王様は考える。恋する女たちにとって、相手の男は、自分の存在価値を決定する、この世で唯一の存在になってしまうからではないか。
どんなに仕事のキャリアを評価されていようと、友人たちから慕われていようと、好きな男に愛されていないと感じただけで、自分のすべての価値が無に帰したような気分になる……そんなアイデンティティ・クライシスに、恋愛中の女たちはいともたやすく陥ってしまうのである。
その代わり、恋人から愛されていると感じた瞬間は、自分を全肯定されたような絶大な恍惚感と充足感に浸される。その快感がまた何よりも強烈なので、女たちは身を引き裂かれるような苦しみを味わいつつも、恋愛をやめられないのだ。
たとえ女として十全に愛されなくとも、仕事や才能や人間性を評価されていればそれでいいではないか、と、恋をしていない時には冷静にそう思えるのであるが、ひとたび恋をした途端、キャリアや人間性なんかより女として愛されることにすべての価値があるかのような錯覚に陥ってしまう。恋愛相手の肯定なんて、一時的なものに過ぎないのに。それを承知で、なお、その男の評価が絶対基準となってしまう……これはつくづく不思議な現象ではないか。
そもそも女にとっての恋愛は、自己確認的な要素が強い。自分が愛されているか、必要とされているか、と、必死で確認を取りたがるのは、男よりも専ら女のほうである。このことには以前から気づいていたが、それはきっと女たちが恋愛以外に自己を確認する手段を持たないような(つまり、キャリアや人間性を評価されるチャンスが極端に少ないような)前時代的価値観の遺物なのだと思っていた。
が、どうも、そうではないらしい。人も羨むようなキャリアや才能の持ち主であろうとも、その人柄が高く評価されている高徳の人であろうとも、「女として十全に愛されていない」という欠落感が本人の誇りをどんなに損なうかを、私は目の当たりにしてきたのだ。女が傷つき壊れるのは、たいてい、その「愛」の問題である。キャリアウーマンも専業主婦も、若い女も年取った女も、等しく「愛の不全感」ゆえに深刻な自己否定感を持つのであった。
とりあえず男女平等という思想が浸透している現代ですら、女たちはその不全感と苦しみから逃れられない。解放されるどころか、ますます苦しんでいるようにも見受けられる。そして一方、若い男たちのほうが、男女平等思想によって女の自意識により近くなり、愛されることに絶大な価値を置くようになって、アイデンティティがぐらつき始めたようにも見えるのだ。たとえば「摂食障害」は、他人の目に映る己の美醜にこだわり過ぎる「女性特有の病」であると思われていた。が、アメリカなどでは今や若い男性の「摂食障害」が増加していると聞く。美醜の問題は、もちろん「愛の問題」と深く関わっている。
男女が平等であるべきなのは当然だが、性差という役割を失った結果、人はより「愛」に拘泥するようになったのだ。それだけが唯一、自分の性の確認となったからであろうか。