もしも自分が男だったら、どんな人生を送っていただろうか……てなことを、時折、考えてみる。
まず、今の職業に就いてなかろうということは確かである。女王様が文章を書くのは、「女であること」の業の深さゆえなのだ。男だったら、このような鬱屈を抱えてはおるまい。「男であること」にも、むろん業の深さはあるだろうが、物を書くとかいう形では発現せず、もっとパワーゲームみたいなものにハマってるような気がする。少なくとも女王様の性格には、そういう部分が顕著に見受けられるのだ。
パワーゲーム女というのは、二重三重に孤独である。
まず第一に、男にモテない。多くの男は、権力を誇示したがる女に対して、恋愛感情やエロスを抱きにくいからだ。権力志向の男に惚れる女は結構いるのに、その逆はほぼあり得ないというのは、「男女平等」なんちゅうものが所詮、絵空事に過ぎない現実を指し示している。
さらに、パワーゲーム志向の女は、女同士の世界で嫌われやすい。女の世界では、上下関係ではなく並列関係の交流が重視されるからだ。つまり、同じ女としての対等な立場で、どこまで共感し合えるか、という能力を問われるのである。
もちろん女の世界でも、互いの優劣を競い合う作業はしょっちゅう行われている。しかし、それはパワーゲーム的な戦いとは根本的に違うものだ。女たちの競い合いとは、たとえば、どちらが魅力的か、どちらが男にモテるか、どちらが幸せか、どちらの生き方が素晴らしいか、といったような、ある意味、客観的判断基準の曖昧な部分で戦っているので、これは非常に答の出にくいゲームであり、したがって、はっきりした勝敗が決まらないまま、最後には「でも、女として共感できる部分は、お互いにあるよねぇ」みたいなオチで心の繋がりを確認することが多いのである。つまり、白黒つかないことが重要なのよ、女の世界では。白黒ついちゃうと、友達でいられなくなるから。
だから、たとえ本質はパワーゲーム志向の女であっても、この「共感能力」を持っていれば、女の世界でも排除されずにすむのであるが、そもそもパワーゲーム好きの女というのは、そういうことを面倒臭がる傾向にあり、したがって「競って、白黒つけて、フォローなし」といった行動に出やすく、結果的に女友達の少ない寂しい生き方を強いられてしまうのだ。
恋人もいない、子もいない、女友達もいない……これぞ、正真正銘の「負け犬」である。男であれば、たとえパワーゲーム人格であろうとも、そのパワーに惹かれて近づいてくる女が必ずいるから、それなりに家庭は持てるし、さほど寂しい状況にならずにすむのだ。
女王様は、己のパワーゲーム人格がどれほど女の世界でマイナスであるかを女子校時代に実感したので、以後、「共感能力」に磨きをかけて、女友達だけは確保できるよう腐心して生きてきた。結果、女友達の延長線上であるゲイの夫を獲得して、何とかギリギリで「負け犬」にならずにすんだが、基本的に孤独であることからは逃れられないのだ。民よ、女王様が永遠にさすらっているのは、じつに、このためなのである。