先日、打ち合わせから帰宅したら、夫が何やらウキウキした様子で、女王様に一通の封書を差し出した。
「ねぇねぇ、これ見て」
「何それ?」
例の港区役所差し押さえ事件以降、すべての便りは悪い報せであるような気がして、郵便物を開封したり留守電を聞いたりするのがすっかり怖くなってしまった臆病者の女王様、夫の手の中でヒラヒラしているB4サイズの封筒を胡散臭げに見やった。
「あんた、もう開封したんでしょ? 中身、教えてよ」
「あのね。こないだの検査の結果。PETって言うんだっけ?」
「ああ……」
「えっと、読み上げるよ。いい? 『今回の検査では、悪性を示唆する明らかな異常所見は認められませんでした』……だって」
「ふーん」
「癌じゃないみたい、あんた。良かったね!」
良かったのか悪かったのかと言われれば、そりゃあ良かったに決まってるのであろうが、べつに飛び上がるほど嬉しいとか胸の底から安堵の息が出たとか、そのような人間らしい反応が一切出てこないことに、我ながら驚いた。なんかね、「あ、そう」って感じ。他人事みたいよ、正直な話。
ただ、目の前の夫の顔があまりにも嬉しそうなので、むしろそちらのほうに安堵を覚えた女王様である。
そうか。良かったな、夫。私がここで死んだら、私よりもあなたのほうが衝撃を受けるだろう。「死」というものが悲劇的なのは、死んでいく者よりも残された者の悲嘆の深さゆえである。
そう、夫よ、女王様にも覚えがある。ずっとずっと前のこと、あなたが病気になった時、私もすごく苦しんだ。あなたは死んでしまうのかと思いながら病院から帰宅し、床にあなたの脱ぎ捨てたセーターを見たら、急に胸が締め付けられるような気分になった。「死」とはこういうことなのだ、と、ふいに思ったのだ。
脱ぎ捨てられたセーターが昨日と同じように床に転がっていても、今日からはもうそのセーターを着る人はこの世にいないのだ、と、認識すること。抜け殻のセーターのように、あなたの不在を、家のあちこちに感じること。それが、残された者にとっての「死」のリアリティなのだと。
結局、あの時、あなたは死なずにすんだ。けれども「死」は、あれからずっと、私たちの家の中を幽霊のごとく漂っている。私の脱ぎ捨てたシャネルが、いつか私の死を、私の永遠の不在を、夫よ、あなたに囁きかけるだろう。その時のあなたの喪失感を思うと、ちょっと胸が重苦しくなるけれど、私は何もしてあげられない。だって、人はいつか必ず、ここからいなくなるのだから。
今年の初め、女王様の旧友が癌で死んだ。五十代半ばの若さであった。彼女が癌なのは知っていたのに、まさか死ぬとは思っていなかった。危篤の報せに慌てて病院に駆けつけると、息を引き取ったばかりの彼女が、ベッドの上に横たわっていた。ぺちゃんこに痩せ細って捻《ね》じくれた亡骸を見て、「ああ、抜け殻だ」と思った。「死」とはやはり、脱ぎ捨てたセーターに似ていたのだ。
気づけば、もう年末だ。女王様のさすらいは、いつまで続くのだろうか。