約五年間、「ショッピングの女王」というエッセイを連載していた『週刊文春』が誌面をリニューアルし、私のエッセイも新ヴァージョンに衣替えして、「さすらいの女王」というタイトルになった。これは、その「さすらいの女王」の単行本第一弾である。
オッパイ整形してヤル気満々で迎えた正月の話から始まるものの、結局はオトコもできず(つーか、むしろフラレてるし)、虚しいエロ初夢で目を醒ます翌年の正月の話で終わる、ひたすらダメな女の一年間だ。途中で癌疑惑が勃発したり、港区役所から人生何度目かの差し押さえを食らったり、いい事なんかひとつもありゃしねーよ。
この「あとがき」を書いているのは、二〇〇五年の四月中旬なのであるが、港区役所による厳しい取り立てはいまだ生々しい爪痕を私の経済生活に残しており、現在の預金残高は冗談抜きで四千円弱。家賃やら公共料金やら消費者金融への借金返済やら、さまざまな支払いをはたしてどうやってクリアするのか、皆目見当もつかない状態だ。いやぁ、さすが中村うさぎ、四十七歳になってもギリギリの人生だなぁ〜。
なぁ〜んて、ついつい他人事みたいに書いちゃう私なのであるが、ホント、これが他人事だったらどんなにいいか、と、しみじみ思う春の夕暮れである。
桜の花はとっくに散ったのに、私という女は散り際もジタバタと悪足掻きし、人工のオッパイをつけたり若返りの注射を打ったり、必死で花盛りを装っている。こんなことをして何の意味があるのか(万年オトコ日照りだしな)、と、自分で自分にお尋ねしたいくらいなのであるが、諸君、こういう事にもきっと「意味」はあるのだ。「価値」はないかもしれないけど、「意味」はある。私の家に堆積している、ゴミと化したブランド物の蟻塚と一緒だよ。その蟻塚に、もはや商品的な価値はない。けれども、私にとっての意味はあるのだ。そして、人がその人生において狂おしく求めているものとは、結局、「価値」ではなくて「意味」なのではないか、と、思うのである。
私は何のために生まれて来たのか、と、問いかける。それは、「私にはどれだけの価値があるのか」という問いではなく、「私の人生にはどんな意味があるのか」という問いなのである。「価値」というのは他人が決めることだけど、「意味」は自分で見つけていくものだ。私は、そう思っている。私の原稿料(作家としての価値)やモテ度(女としての価値)なんてぇものは、出版社の皆様や男性方がそれぞれ判断してくださればいいことなので、私がジタバタしたって仕方ない。それよりも大切なのは、私が自分の人生にどれだけの意味を見出せるか、なのではないだろうか。よくわかんないけど、そう思うのよ、私。
「価値」よりも「意味」に重きを置けば、他人の評価に振り回されることもない。「勝ち組」だの「負け組」だのと、自分の生き方を採点する必要もなくなる。美容整形やシャネルのスーツによって、私の「女の価値」は一向に上がらなかったが(むしろ下がったかもしれない)、私にとってはじゅうぶんに「意味」のある行為であった。人生に無駄をなくそう、などと人は提唱するけれど、無駄を通り過ぎなければ自分に必要なものさえわからない女もいるの。それが、私。
皆さん、無駄を恐れず、うんと悪足掻きして生きましょうよ。ジタバタしたって、いいじゃない? たった一度の人生なんだもんね。