この春、私は、積年の悩みをついに解決した……といっても、借金を完済した(それだったら、どんなにうれしいか!)わけでも、ダイエットに成功したわけでもない。ただ、歯医者に行って歯を二本抜いただけである。
しかしね、歯医者に行くという行為が、私にとってどんなに勇気と決断力を要するものであったか、とても口では表現できませんよ。
私は、この世で一番、歯医者が怖い。その存在に関して、幼年期に強烈な苦痛と恐怖の記憶を植えつけられており、いまだに克服できていないのだ。トラウマってヤツですね、まさに。
待合室で、あの「ウィーン……ガガガガッ」という歯を削る機械音を聞いただけで、全身に鳥肌が立ち、尻に帆をかけて逃げ出したくなるのである。
しかし、そうも言ってられないほど虫歯の痛みは深刻となり、ついに私は勇気を振り絞って歯医者に行ったワケだ。おかげで、とうとう虫歯の悩みから解放された……と、思ったら!
ホッとひと息つく間もなく、さらなる悩みが私に重くのしかかってきたのであった。
それは、「歯の値段」である。
何十年も歯医者を避けて生きてきた私は知らなかったが、歯って、けっこうな値段がするモノなんですねぇ。私の場合、三本の義歯を入れなければならなかったのだが、なんとそれが三十六万円もするってんだよ。
三十六万円だとぉ? 住民税も滞納してる私が、そんな大金持ってるかっつーの!
買い物には後先考えずに金を遣うクセに、歯医者や税務署に払うとなると十万円でも出し惜しむ私である。自分の快楽につながらない出費は、私にとってすべて「悪」なのだ。そんな私に三十六万円の請求は、正直、歯を抜かれるより痛かったね。
長年、歯を大切にしなかったツケが、まさかこんな金額で返ってくるとは思わなかった。人間にとって大切なものは目先の快楽じゃないよなぁ、やっぱ歯や身体の健康だよなぁ……と、殊勝にも猛省した次第である。
で、「贅沢よりも健康さ!」という新しいスローガンの下に生まれ変わった私は、さっそく購入したのである。例によってTVの通販番組で宣伝してた、アメリカ製の高性能電動歯ブラシを。値段は、一万九千八百円。
たっけぇ〜! 歯ブラシの値段とは思えんわい。生まれ変わる前の私なら、絶対に買わなかったな、こんなモノ。
しかし、ここで二万円をケチれば、近い将来、またもや何十万も歯医者に支払う羽目になる。転ばぬ先の二万円。この投資、絶対に無駄になんかするものか。
なにしろ一分間に三万回転もの速さでブラシが振動し、口中の歯垢をことごとく除去する奇跡の歯ブラシだ。二万円分の働きは、してもらいまっせ!
と、まぁ、それほどまでに勢い込んで買った商品であるから、初めてそれを手にして歯を磨こうという瞬間、私は久々に興奮したね。
いつもは何も考えずにやってる歯磨きだが、その時ばかりは「よーし、歯を磨くぞ! 二万円の歯ブラシで磨きまくるぞ! もうピカピカに磨きあげちゃうからな、おらおらっ!」という、非常に気合いの入った状態だった。四十年の人生で、これほど戦闘的な気分で歯磨きに臨んだのは初めてである。
口の中に歯ブラシをくわえ、厳《おごそ》かにスイッチを入れる。ウィーンという機械音とともにブラシが振動し始める……と、その瞬間!
突然、私の中に、恐怖の記憶が、まざまざと蘇ったのであった。口の中でウィーンと鳴って振動する機械。それは、私の天敵である、あの恐るべき歯医者の機械にそっくりだったのだ!
おまけに、振動する歯ブラシの背がうっかり奥歯に触れようものなら、たちまちガガガッと耳障りな音までする。
ウィーン……ガガガッ!
ああ、これ! この音だよ! 世界で一番怖い音だぁーっ!
だが、私は耐えたね。健康のために。二万円の投資のために。そして、二度と歯医者ごときに大枚はたきたくない一心で……。
そんなワケで私は、今日も鳥肌立てながら歯を磨いてる。歯医者に行かないためには、自宅で毎日、歯医者の恐怖を味わわなきゃいかんのだ。げに人生とは、皮肉な試練の連続じゃのぉ。