先日、仕事で横浜を訪れた私は、元町の「梅林」という和食屋さんに行ったのである。
皆さんは、このお店をご存じですか? 私は知らなかったけど、なんでも「あの美食家の山本益博氏が絶賛した超有名店なんですよー」(事情通談)だそうな。
ほー、そりゃ楽しみだ。今夜は倒れるまで食いまくるぞっ! 期待に胸を膨らませ、私は店に足を踏み入れた。そして……。
二時間後には、ホントに倒れていたのであった。食い過ぎで。
いやもう、ものすごい量の食事だったね。コース料理は全部で二十数品目だよ、あんた。
前菜の後、毛蟹が出て、鯖の味噌煮が出て、鰯の塩焼きが出て、その合間に和え物や酢の物や煮物や揚げ物が、これでもかこれでもかと出て、そろそろ終わりかなと思ってた頃、仲居さんに「この後、刺身の桶盛り、グラタン、エビフライ、炭焼きステーキと続きます」と言われた時にゃ、一同、「ぐわぁっ!」と悲鳴をあげたのであった。
だいたいねぇ、考えてもみて欲しい。フツー、定食屋でご飯を食べる場合、鯖の味噌煮と鰯の塩焼きとステーキとエビフライ、全部注文する人はいないでしょ。たいてい一品、多くても二品がいいとこだよ。それが、ぜーんぶコースに盛り込まれてんだもん。
しかも、割烹料理にありがちな小さな切り身とかじゃなくて、鰯も海老もドーンとデカいのが丸ごとだい。もう、豪快とかってのを通り越して、ほとんど喧嘩腰である。客の胃袋に戦いを挑んでるよ、この店は。
まぁ、これで不味《まず》かったら箸をつけずにすむんだが、幸か不幸か、おいしいんだよ。残すの、もったいないんだよ。でも、食えないんだよ。助けてぇっ!
途中、いかにも苦労人風の女将さんが挨拶に現れ、「お気づきの点がございましたら、何なりとご意見聞かせてくださいませ」と言った時、その場にいた全員の脳裏に「量が多すぎんだよっ!」というツッコミの言葉が浮かんだのだが、なぜか誰ひとり口には出さなかった。
それがなぜなのか、後で考えたんだけど、やっぱ、この女将の「苦労人風」(実際のところは知らないけど)なムードのせいではないかと思う。
ああ、この人はきっと、この店を出すまでに苦労したんだろうなぁ。最初は三浦海岸の浅蜊《あさり》拾いから始まって……などと、勝手に彼女の半生記を心の中で作ってしまい、こんなに量が多いのもきっと彼女が「おいしい物を腹いっぱい食いたい」と浅蜊拾いながら夢見た結果なんだろう、ええ話やなぁ……と、客が無理やり納得してしまうせいなのである。
飽食の時代に育った戦争を知らない子どもたちは、戦火をくぐりぬけて浅蜊拾いから身を起こした(とゆーのは、私の勝手な想像なのだが)細腕繁盛記みたいな女将に、ハナから恐縮してしまうのだ。「こんなにたくさん食えるかぁっ!」などという贅沢な暴言、とてもじゃないけど吐けませんよ。だって、相手は苦労人。苦労した人は批判の余地なくエラいんだって、小学校で習ったもーん!
女将はその後、「表の看板は亡き黒沢明先生が……」と自慢話モードに突入したが、これも苦労人ゆえ特別に許してやろう。
しかしまぁ、黒沢監督も、この殺人的阿鼻叫喚これでもかこれでもか満腹地獄を味わった後、しみじみと腹をさすって、「生きる……」なーんて呟いたんですかね。確かに、生きる喜びと苦しさを、イヤというほど味わえる店であったよ。
てなワケで、蛙のように膨れた腹を抱えてヨロめき出ると、店の前にはすでに客が長蛇の列をなしていた。なるほど、有名店なんだなぁ。でも、行きはよいよい、帰りは地獄だぞ。特にそこの老夫婦、途中で死ぬなよ。
ちなみに、これだけ食って、お値段はひとり一万三千円。安い! 確かに美味くて安い! けど、あんまりうれしくない。なぜなら私は、美食三昧プラス限度枠オーバーの満腹感と引き換えに、何か大切なモノを失った気がするから……。
この店のおかげで、私は当分、鯖の味噌煮も鰯の塩焼きもエビフライもステーキも、心から食べたいとは思えないだろう。私の食の愉しみを返してぇ〜!