昔から記憶力には自信がなかったのだが、最近、とみに度忘れの激しくなった私である。
ワープロで原稿を書くことに慣れてしまってからは、特に漢字を忘れる。ヒョイと忘れて、どうしても思い出せないのだ。漢字だけではなく、言葉そのものが出てこないこともある。
よく、井戸端会議してるオバチャンたちが「アレは、ほら、アレだから、アレしなきゃねぇ」なんて、意味不明の指示代名詞を乱発するが、まさに私もあの状態なんである。思考と会話の速度に言語中枢がついていけないのだろーか? しっかりしてくれ、私の脳ミソ!
さて、そんな私であるから、ある日、『ど忘れ日常国語辞典』なる辞書を発見した途端、「これは私のためにある本だ!」と確信した。これからは、この辞書を常に携帯して、度忘れに備えよう。世の中には、このような親切本が多数出版されていて、非常にうれしい限りである。
で、さっそく買ってきた本を自宅でパラパラとめくってみると……。
「なんだ、こりゃ〜?」
親切も度が過ぎるってゆーか、思わず噴き出したくなる言葉が大マジメに記載されているのを発見して、私は大いにウケてしまったのであった。たとえば、
〔大(だい) 大きいこと。〕
いや、そりゃまぁ、そうなんだけどさ……ちょっと待ってよ。
これって、『ど忘れ日常国語辞典』でしょ? 日常の、ちょっとした度忘れのための辞典だよね?
しかるに、「大」なんて基本的な漢字(たった三画だぞ)を忘れるような、また、その意味すら忘れちまうような超ド級の度忘れ人間が、どこにいるっ!?
それはもはや、度忘れではない。モーロクである。いや、いくらモーロクしたって、これほど基本的な字や概念を忘れるのは並大抵のコトではあるまい。むしろ記憶喪失に近い症状であろう。こんな辞書を引いて「ほぉ、なるほど」などと脳天気に納得してるより、病院に行ったほうがいいと思うぞ!
他にも、こんなのがある。
〔九(きゅう) 数の一つ。ここのつ。く。〕
九という言葉の意味を忘れた人に、この説明は何の役にも立つまい。「数の一つ」って言われてもねぇ……。
そんなこんなで、私はこの辞書を引きながら、腹を抱えて笑っていたのであるが……。
突然、ある恐ろしい度忘れ体験を思い出して、ハッと笑顔が凍りついてしまったのであった。
そう。あれは、忘れもしない去年の今頃。私は「東放学園」という専門学校で、月に一度、講義を受け持っているのだが、ある日、生徒に課題を出そうとした時のことだ。
黒板に「原稿用紙○枚」と書こうとして、「枚」という字を「牧」と書いてしまった。それだけならば単なる書き間違いですむ話なのだが、生徒に指摘されて書き直そうとした、その瞬間……!!!
「?????」
いきなり、「枚」という字を忘れてしまってる自分に気づいたのである!
ちょ、ちょっと待ってよ。嘘でしょ、あんな簡単な漢字……ああ、でも、どーしてもっ、思い出せないんだよぉっ!
私は黒板の前で固まったまま、目の前が真っ暗になったね。この時の狼狽と恐怖を、たぶん私は一生、忘れない。
いくら度忘れが酷《ひど》いったって、まさか小学校で習った漢字を忘れるとは思わなかった。大学まで行った私は何だったんだ。
結局、恥ずかしながら最前列の生徒に、「枚って、どんな字だっけ?」などと、恐る恐る尋ねてしまう結果となった。先生の面目、丸潰れである。「エラそーに課題なんか出してる暇があったら、漢字の書き取りでもしてろ、中村うさぎ!」と、生徒たちは思ったであろう。
ああ、そーだ、そーであった。「枚」なんて字さえコロリと忘れる私が、「大」や「九」を忘れる日は、そう遠くないはずではないか!
諸君、女王様はモーロクを通り越して記憶喪失になりつつある。こんな辞書を買って笑ってる場合じゃないよ。誰か、私を病院に連れてってぇ!
さて、ここでクイズです。この原稿を書きながら、女王様は何回、辞書を引いたでしょーか?