まずは、お詫びから申し上げねばなりません。皆さん、ごめんなさい。前号で、私、横尾忠則氏作の「猫の阿弥陀如来像」を買った話を書きましたが、あれは、「阿弥陀如来」ではなく、「弥勒菩薩」なのでした。間違えちゃった。すいません。
しかし、こーゆー間違いは恥ずかしいものだよなぁ。己の教養の無さを、公衆の面前でドクドクと垂れ流しにしちゃった感じである。ちくしょー、一生の不覚……。
ま、読者の方は皆、心の広い優しい方だろうから、こんな間違いも笑って許してくれて、ついでに速やかに忘れてくれるであろう。文春に「中村某は阿弥陀如来と弥勒菩薩の見分けもつかんのか。怪しからん!」などと投書する人もいないと信じる。信じていいよね、ね?(←卑屈)
それにしても、このように無知で無教養な女には、そもそもブランド物など持つ資格がないのではなかろうか。ブランド女のバイブル『25ans』を読んでると、どうやらブランド物を持ってもいい女とは、育ちがよくセンスがよく知性と教養に溢れてないといけないらしい。
ま、『25ans』の読者たちは間違ってもエルメスのバッグを質になんか入れないだろうし、そーゆー意味じゃ私なんか彼女たちの敵なんだろーな。何よ、育ちの悪いビンボー人が見栄張ってエルメスなんか持っちゃって、身の程知らずめ、ってな感じであろう。
しかしなぁ、元来、ブランド物ってのは、「ハイソで洗練されててゴージャスなマダーム」的世界のシンボルとして、「あたしもハイソになりたーい」という庶民の下世話な欲望を食い物にして、ここまでノシ上がって来たヤツらではないか。全世界の身の程知らずに支えられてるようなもんだろ。
そーいえば、一時期は調子に乗りすぎて見境なくライセンス物を出しまくった結果、みずから身を滅ぼしたブランドもあったよなぁ。ヴァレンティノなんか、便器の蓋カバーまで出しちゃってねぇ。ありゃ失敗だったな。何が悲しくて、便器カバーなんだ。あの貧乏臭さを払拭するには、相当時間がかかるだろう。がんばれ、ヴァレンティノ!
このようにブランド物とは、もともと貧乏人の幻想に支えられてる分、一歩間違えれば本気で貧乏臭くなる危険な存在である。ライセンス物に限らず、本家本元の商品でも、「ちょっと目を離したらアンタ、いつの間に」と言いたくなるようなスットコドッコイ物を出すコトがあるのだ。
このたび、それを発見したのは、香港に里帰りしてた夫である。彼は笑いながら電話をかけてきて、
「ねぇ、ティファニーのメジャー売ってたよ」
「メジャー……って?」
「ほら、窓とか測るヤツ」
「…………(←絶句)」
そう。またしても、あのティファニーがやってくれたのであった。以前、ティファニーのヨーヨーを発見して呆れた私だが、今回はそれに輪をかけてマヌケである。メジャーだってよ。それって、あまりにもハイソからかけ離れてないか?
いや、ティファニーがイメチェンして庶民派になるというのなら、話はわかる。大工道具でも便器洗いブラシでも、何でも出すがよかろう。
が、そのメジャー、やっぱり銀製なのだそうな。明らかに庶民派志向ではない。かといって、ハイソでもない。そこにはどんなイメージもない。そもそも、銀のメジャーで窓を測るという行為に、どのような幻想を抱けとゆーのだ。ヘップバーンも泣いてるぞ、きっと。
軽量化がもてはやされる時代にヴィトンのトランクが相変わらず重いのは、「自分でトランクを運ばない階級の人々」に向けられたブランドだからこその反時代性だ。それが、逆にヴィトン信仰の幻想を支えている。
しかるに、ティファニー。なんでメジャーなんだ。おまえんちの顧客は、自分で窓なんか測るのか。それとも、今後はイロモノに徹する覚悟でも決めたのか。でも、なんでそんな覚悟しちゃったんだよ。辛いコトでもあったのか?
当分、ティファニーから目が離せない私である。おもしろすぎるぜ、ティファニー。コレクターになっちゃいそうだ。
*ティファニーのファンである読者の方から、反論のお手紙をいただいた。ティファニーは決してお高いブランドではなく、むしろこのような楽しい小物こそが、このブランドの魅力なのだそうである。知らなかったよ、ごめんな、ティファニー。