学生時代、「天才的発明家」の異名を与えられた井深であったが、就職先を探すのにだいぶ苦労している。当時は昭和四年の世界大恐慌の余韻のさめやらぬ不安定な時代とあって、技術系大卒者の就職は容易でなかった。それに電気関係といっても、脚光をあびているのは電力会社や電機メーカーの重(強)電部門で、歴史の浅い弱電専攻の学生に門戸を開いている企業は、数に限りがあった。
それを案じた北海道の親類から、「函館水電という会社で技術者をほしがっている。就職する気があるなら北海道に来るように」と、誘いの声がかかった。この親類は井深の父の従兄弟で、函館市内で海産物問屋をしている太刀川善吉という人だった。井深が大学に進学してから、毎月五〇円ずつ学費を援助してくれた恩人でもある。だが井深にはその気がなかった。学校の紹介で東京電気(昭和十四年、芝浦製作所と合併し東京芝浦電気となる)の入社試験を受けることにした。しかし、ものの見事にはねられてしまった。片寄った勉強の仕方が敬遠されたらしい。それに関連して井深自身は次のように語っている。
「学校から二人推薦されて受けたんですが、一人が強いコネをもっていた。私もコネがなかったわけじゃない。その頃東京電気の重役(のち社長)だった山口善三郎さんという人は、私の父が古河製銅所にいたときの工場長だった。私が『井深の息子です』と頼みに行けば、なんとかなったかもしれない。私はそれをしなかった。負け惜しみじゃないが、それほど魅力のある会社とは思っていなかったのでね」
ちなみに付け加えると、このとき採用された早稲田の学生は、昭和三十三年五月に完成した東芝のトランジスタ専門工場(多摩川工場)の初代工場長になった林武信である。
当時、東京電気は弱電メーカーの大手であった。だが、つくっているものはランプ(電球)が中心で、GE(ゼネラルエレクトリック)社の技術援助ではじめた真空管事業は、需要が少なかったせいか、少量生産でお茶を濁していた。井深にはそれが物足りなかったのである。
しかし、失望はしなかった。その気になれば建国して日の浅い満州に行けば、条件のよい働き口はいくらでもある。また、これまでの経験や研究成果を活かせば独立することもできる。そんな自信めいたものが井深の心のなかにあった。
そこへ思いがけない話がもたらされた。「走るネオン」の特許を出したとき、親切に面倒をみてくれた清水という審査官から、「君のような人をほしがっている会社がある。訪ねてみる気はないか」と、井深の意向を打診してきた。
その会社は、東宝映画東京撮影所の母体となったPCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所、創立昭和五年)で、映画フィルムの現像と、録音を専門とする小さな会社であった。創立者である植村泰二所長は、のちに経団連会長を務めた植村甲午郎の実弟で、新しい技術に理解のあるユニークな事業家として知られていた。その植村は、井深が学生時代に手がけていたケルセルの研究に深い関心を寄せ「好きなことをなんでもやらせてあげるから、ぜひうちに来なさい」と、誘ってくれたのだ。
井深はその一言で心を動かされた。そしてPCL入りを決意する。音声を光に変え、それをまた音に変えるという仕事は、自分にうってつけのような気がしたのだ。このとき植村は「月給は帝大出並みの六〇円にしよう」と、約束してくれた。それも魅力の一つであった。こうして井深は、PCLの技術社員になった。昭和八年春のことであった。
当時、日本の映画界は活弁時代に終わりを告げ、トーキーが定着しはじめた頃である。日本でトーキー製作の機運が盛り上がったのは、大正十四年七月、新橋演舞場で、三極真空管の発明で有名なド・フォレスト博士の「フォノ・フィルム」が公開され、皆川芳造がその権利を手に入れ「ミナトーキー」の名で、数本の作品をつくったのがそもそものはじまりである。その後、本条政生のディスク式「イーストフォン」(昭和三年)を経て、土橋式トーキーが開発され、本格的なトーキー時代が到来した。
ところが、土橋式トーキーは松竹が独占していた。そのためライバル会社であった日活は、苦境に立たされた。日活は発足間もないPCLと組んで、その立ち遅れを取り戻そうと策した。その頃トーキーはアメリカのRCA方式とウエスタン方式の二つが主流であった。井深が入った頃のPCLは、その二社の特許に抵触しない新しい録音方式の開発に力を入れていた。それだけに井深のような人材は、PCLでも貴重な存在だったといえよう。
入社して一ヵ月目に、井深はあと味の悪い体験をさせられる。入社時の約束では月給六〇円というのに、もらった月給袋には五〇円しか入っていなかった。これには井深もカチンときた。話が違うと思った。無口でおとなしいといわれていた井深も、こういう約束違反は大嫌いだった。さっそく、所長室に行き植村に抗議した。
最初、植村もなんのことかわからずポカンとした表情で井深を見ていたが、すぐ自分の度忘れに気がついた。だがそれを口にせず「そんな小さなことにコセコセするな」と、軽く井深をたしなめた。そういわれると、さすがの井深も返す言葉がなかった。
この問題はすぐ氷解した。翌月の月給袋にちゃんと六〇円入っていたからだ。やはり、植村は心の広い、さっぱりした性格の経営者だった。それだけに多くの人に慕われた。植村亡きあとも「植村会」という名称の偲ぶ会が、関係者の肝入りでつくられ、いまでも定例の会合を開いている。もちろん、井深もその会の発起人の一人であった。
このPCL時代は、井深の資質と人間性をより豊かにする大事な期間であったことを知る人は意外に少ない。そういう意味からPCL時代の井深の仕事ぶりや生活観を、エピソードを通じて拾い出してみるとしよう。