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創造の人生09

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:PCL砧撮影所 前にも触れた通り、井深は入社二ヵ月目から月給六〇円と破格な扱いを受けたが、その後も月給はどんどん上がり、
(单词翻译:双击或拖选)
 PCL砧撮影所
 
 前にも触れた通り、井深は入社二ヵ月目から月給六〇円と破格な扱いを受けたが、その後も月給はどんどん上がり、一年目で九〇円、三年目には一五〇円の高給取りになっている。これはPCLが、井深の入社した昭和八年の五月から劇映画の自主製作をはじめたことと深いかかわりがある。
 もともとPCLはトーキーの録音技術提供が目的で設立された会社である。したがって、自主製作は行なわず、ニュース映画や独立プロダクションがつくった映画の録音を請け負うという、貸スタジオ経営方式であった。のちになって、日活映画の録音を引き受ける契約が成立したのを契機に、同時録音用の劇映画専用スタジオ二棟(現在の砧撮影所のNo.1、No.2スタジオ)を建設した。昭和七年秋のことであった。
 ところが、このスタジオが完成する直前、日活側の内部事情で、劇映画製作の契約が破棄された。このためPCLは、独立プロダクションからの委託製作、朝日ニュース映画の録音を請け負うことで急場をしのいでいたが、最高の設備を誇るステージを恒常的に使用できるプロダクションは、当時、皆無に等しかった。これでは完成したスタジオの維持費も捻出できない、そこでPCL首脳陣は、これまでの方針を変え、劇映画の自主製作に乗り出すことによって局面を打開しようと考えた。井深が入社する前後のPCLはこんな状況下にあった。
 PCLの自主製作第一回作品は、昭和八年五月から撮影を開始したミュージカル・コメディ『ほろよひ人生』(昭和八年八月封切り)で、企画構成・製作は森岩雄、監督は木村荘十二、出演者は既成の俳優を使わず、当時、浅草玉木座で人気のあった藤原釜足、デビュー間もない新進女優千葉早智子、パラマウント俳優学校を卒業したばかりの大川平八郎、軽演劇界や寄席からは徳川夢声、古川緑波、大辻司郎、新劇の丸山定夫らを起用した。
 この映画はトーキーならではの魅力を活かすため、作曲に元音楽学校教授の兼常清佐、編曲・指揮に紙恭輔、音楽効果に声楽家の奥田良三を迎え万全を期したこと、さらに製作費をカバーするため、大日本麦酒(株)と提携、ビールの宣伝を劇中に採り入れるなど、それまでの映画に見られない斬新なアイデアが盛り込まれていた。
 井深は、PCLの映画自主製作の録音技術向上に欠かせない要員として採用されたわけだ。入社した昭和八年の一二月から、毎週開かれる同社の技術会議に出席を認められた。この会議はPCL技師長の増谷麟(のちのソニー監査役)邸で行なわれ、出席者はPCLの技術者だけでなく、横河電機の技師長だった多田潔、日本無線の門岡達雄技師など、斯界の一流技術者を交えた勉強会のような会議であった。
 学校を出たばかりの井深が、こうした会議のメンバーになったのは、当時としても異例のことであった。井深はそれほど嘱望されていたといえる。さらに、井深は本来の仕事である録音技術の研究だけでなく、ネオンやブラウン管をつくったり、かなり自由な研究活動をさせてもらっている。それに関連して井深はこんな話をしている。
「植村さんは、非常に幅の広いものの見方をされる方でしてね。われわれに対しても『新しい技術の発見は国家的なプラスであり、人類の進歩のために不可欠である』と、口ぐせのようにおっしゃっておられた。そういう前向きな思想の持ち主だけに、直接、事業に関係なくても、日本のためになる仕事なら、大目に見てやらせてくれたんですね」
 こうした恵まれた環境が、井深の〈技術する心〉を豊かにしただけでなく、人間の幅を拡げるうえで非常に役立ったはずである。幸いなことに、井深の周辺にはユニークな同好の士が揃っていた。それが仕事を楽しくする原因の一つでもあった。
 その頃世間では、映画づくりに携わる人びとを〈活動屋〉と呼び、〈社会のはぐれもの〉のような目で見ていた。映画監督や出演俳優は契約者であり、それを支える製作スタッフは、一応は正規の社員だったが、映画づくりという仕事の性質上、およそ会社員らしくない暮らしをしていたからだ。たとえば、会社の組織上からは製作部員、技術部員、美術部員、事務部員などとタテ割りされていたが、実際の仕事は組織のワクを越えた形で行なわれる。いわば、タスク・フォース方式で仕事がすすめられているのである。出退勤はチーム(監督の名を付して○○組といわれていた)ごとでいろいろ異なる。服装もラフな格好をしていてもかまわない。何より大多数の社員は、活動写真(当時はこういった)が好きでたまらずこの世界に飛び込んできたものばかり。一般社会の規範に合わないのは当然であった。それが〈社会のはぐれもの〉と見られた理由であった。
 一本の映画をつくるときの人事採量権は監督が握っていた。PCL時代から東宝創成期を支えた木村荘十二、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、山中貞雄、滝沢英輔、豊田四郎、熊谷久虎、阿部豊、斎藤寅次郎などがメガホンを取るときは、カメラ、照明、録音担当の技師は、彼らの好みで選ばれた。いったん撮影がはじまると、監督を中心に独自のチームワークのもとで、仕事が手際よくすすめられていく。徹夜が何日続いても平気という人間が多かった。仕事がすめばスタッフは解散し、それぞれの所属部屋に戻り、次の仕事を待つ。腕のいいカメラマンや照明、録音技師は別の監督にすぐ指名され、休む暇もなく次の仕事に駆り出された。これが、一般的な映画づくりのルールであった。
 井深が在籍した頃のPCLは、自主製作をはじめたばかりで、規模も小さかった。しかし、製作本数が増えはじめた昭和十年以降になると、砧村(現喜多見町地区)周辺も次第に撮影所らしい雰囲気に変わっていった。なかでも注目されたのは録音関係の設備である。同じ頃完成した松竹大船撮影所(昭和十一年一月移転、スタジオ二階部分にレコーディングルームが設けられていた)と違い、レコーディングルームはスタジオとは別個に独立した建物をつくり、スタジオ内の移動式ブース(調整台)と専用線で結び、少ない人員でも機械を集中管理ができる斬新な設備だった。
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