井深が撮影所関係者とモーターサイクルを乗り回し、ツーリングを楽しんでいたのは、この前後のことらしい。愛車は赤く塗られた「インディアン」だったというから、相当なマニアである。もともと井深はクルマ好きで、これまでにも国産車、ヨーロッパ車、アメリカ車と次々に買い換え、いまではリンカーンに乗っている。
最初、免許を取ったのは昭和十年。「本当はもっと早くに取りたかったのだが、PCL入社間もなく二八〇円もするドイツ製の三五ミリカメラ『ライカ』を買ってしまったため、クルマを買う余裕がなかったから」という。その後、月給も二倍になり、賞与もたくさんもらえたので免許を取り、そのうえで大枚五五〇円を投じ、中古の「ダットサン」を購入した。この車はセコンドでないと、渋谷の道玄坂を上がれなかったというから、ポンコツもいいところだ。それをある程度使いこなしてから、モーターサイクルに切り換えたらしい。こうしてPCL時代の井深は、仕事の時間と遊びの時間を適当に使い分け、生活をエンジョイしていた。
この時分、井深がもし映画づくりに関心をもっていたら、ハワード・ヒューズ同様、この世界で有名な存在になっていたかもしれない。だが井深は映画を好きになれなかった。絵空事のように思えたからである。とはいえ、録音技術の研究はもっとやりたい、それ以外にもやってみたいことはたくさんあった。ところが、映画づくりにかかわっていると雑用が多すぎる。井深にはそれが負担になって、悩むことが多くなった。
ある日、井深は、思いきって所長の植村に自分の心情を率直に訴えた。そして、植村が一六ミリのトーキー映写機をつくるために設立したばかりの日本光音工業に転籍させてもらうことにした。昭和十一年末のことである。
ところで、二・二六事件が起こったこの昭和十一年には、井深の人生にとって節目になるもう一つのできごとがあった。井深が慈父のように慕っていた作家の野村胡堂から見合いをすすめられたことである。その頃は野村も、売れっ子の大衆小説家として有名になっており、軽井沢に別荘をもつなど悠々自適の生活を送っていた。その野村の別荘の隣が、当時、朝日新聞の論説委員として活躍していた前田多門の持ち家であった。
野村が井深にすすめた見合いの相手は、その前田家の次女の勢喜子である。その頃、勢喜子は女子美術学校在学中で、まだあどけなさの抜けきれない清楚な感じの娘だった。野村に伴われ、東京の前田家ではじめて勢喜子に会った井深は、「こんな子供でも結婚できるのかな……」と、思ったそうだ。それほど頼りなく見えたらしい。
しかし、勢喜子の父である前田多門とは意気投合し、日頃思っていることや、自分の人生観、日本の技術のあるべき姿など、いろいろ話し合った。勢喜子の母は、そんな井深が気に入り、なんとかこの縁談をまとめようと積極的に動いた。つまり、井深は前田夫妻にすっかり見込まれ、勢喜子を妻にもらい受けることになったのである。
こうして昭和十一年一二月、勢喜子と結婚した井深は、世田谷の新居から日本光音工業に通い出した。前述のように、日本光音工業は一六ミリのトーキー映写機をつくるために発足した会社だが、社長の植村は、井深のためにわざわざ無線部を設け、その主任格の技術者として登用、特殊な真空管やブラウン管の研究開発に専念させるように仕向けた。井深が弱電技術者として本領を発揮しはじめるのはそれからであった。
昭和十二年七月、蘆溝橋事件に端を発した日中の武力衝突は、次第に本格的な戦争に発展しそうな気配をみせてきた。それに伴い日本光音工業も、一六ミリのトーキー映写機ばかりつくっているわけにはいかなくなった。代わって台頭してきたのが、無線部のつくったラジオゾンデに搭載する無線機用の小型真空管や測定器用のブラウン管である。そのブラウン管を使ったオシロスコープは、業界でも高い評価を受け、いつの間にか日本光音工業の主力製品の一つになった。
おかげで井深はますます多忙になった。だが、好奇心が旺盛なだけに、社内にじっとしていない。暇をみつけては外部の関係者と交遊を重ねていた。その一人に、むかしのハム仲間である笠原功一がいた。笠原は関西学院大学を出たあと、ラジオ関係の仕事がやりたくて、七欧無線電気商会に入り活躍していた。井深も早稲田在学中から、笠原のところにひんぱんに出入りし、情報を交換したり、七欧無線でなければ入手できないラジオの輸入部品を分けてもらうなどしていた。
その頃、七欧無線の社員であった樋口晃(のちソニー副社長、相談役)は、そんな井深を何度も見かけ、顔を覚えていた。天才発明家として有名な存在だったからである。
ある日、樋口は、その井深から「日本光音で一緒に仕事をする気はないか」と、声をかけられた。一瞬、樋口はびっくりした。常々、真面目で好ましそうな人物だと思っていたが、それまで井深と直接言葉を交わしたことはなかった。その人から意外な誘いを受けた。それで驚いたのだ。同時に嬉しさがこみあげてきた。「この人はオレを評価してくれた」と、思ったのである。
樋口はそれからほどなくして日本光音工業に移り、井深のもとで働くことになった。その日本光音工業に、もう一人逸材が入って来た。井深が頼まれて講師をしていた東京・尾山台の高等無線技術学校の教え子だった安田順一(のちソニー技術部次長)であった。以来、この二人は、井深とずっと行動をともにし、ソニー発展に重要な役割を果たすことになる。