井深はこの時代、もう一人自分の運命を左右する大事な人と出会っている。磁気録音の交流バイアス法の発明者である東北大学教授永井健三(のち名誉教授)である。永井が高等無線技術学校の深井校長の親戚だったことで知遇を得たものだ。これを契機に井深と永井、その門下生との切っても切れない縁ができるのである。
井深にはじめて会ったマスコミの人は、誰もが無愛想でとっつきにくい人という。彼は若いとき、無口でおとなしい人といわれてきた。しかし、それは井深の一面でしかない。井深は、波長の合った人と話すときは、しばしば時間のたつのも忘れる。話題は豊富だし、ムダがない。それが相手を魅了する。井深の美点の一つは、人の面倒をよくみることであった。永井がこんな話をする。
「私が井深さんにえらいお世話になったのは、昭和十五年、大学からアメリカに行かされたときなんです。ところが、出張といっても船賃だけしかくれない。もちろん、俸給は向こうでもらえるが、困ったのは日本に残る家族の生活費です。家族には俸給の半分か、六割ぐらいしか支給されない。それですっかり困った私は、国際電電に借金に行ったわけです。そのとき心配した井深さんが、PCLの植村さんに引き合わせるなどして、お金まで工面して下さった。おかげで私も心おきなくアメリカに旅立てたんです」
当時、井深と永井の関係は、あくまでも個人的なもので、仕事上の交流は何もなかった。にも関わらず、永井のために親身もおよばぬ世話をしている。永井の名声や研究成果を利用したいという妙な下心は、いっさいなしにである。そんなところはいかにも井深らしいやり方といえよう。
永井が渡米した昭和十五年は、井深にとっても大きな変動のあった年である。それは日本光音工業の無線部を分離独立させ、日本測定器という会社を設立したことであった。きっかけは、日中戦争の長期化による環境の変化である。このため日本光音無線部は、陸海軍関係の仕事が増え、いつの間にかトーキー映写機とはまったく無縁の測定器をつくる工場に変貌していた。
「このままでは、仕事がやりにくくなる。それにもっと別なこともやってみたい」
井深はそんなことを考えるようになった。ある日、早稲田時代に友愛学舎で同じ屋根の下に起居をともにした小林恵吾を訪ねた。その頃小林は横河電機で航空計器の仕事をやっており、これまでも仕事上のことで何度も会っている。その小林に、井深は自分の構想をざっくばらんに打ち明けた。
「世の中では電気であるとか、機械であるとか、その専門を割りきって製品を出しているのが常識だが、われわれはそんなことにとらわれずに、むしろ、積極的に電気と機械の中間を歩むような会社をつくろうじゃないか。資本は日本光音から出してもらうつもりだが、君も一緒にやってみないか」
小林も喜んで参加を約束してくれた。こうして昭和十五年秋に、井深の夢を託した「日本測定器」が設立された。それに要した資金は、日本光音工業の植村社長と、小林の関係で「ライオン歯磨」が出してくれた。首脳陣は、植村が社長、小林が専務、井深は常務という顔ぶれで、総勢五〇名という小ぢんまりした会社であった。このなかには前出の樋口や安田も入っていた。
新会社は東京・五反田駅前のロータリー近くのパン屋の横を入ったところに手頃な物件を見つけ、入居した。つくるものは、機械的振動子を電気回路に組み入れた機器類である。当時、陸海軍の技術研究所にいた井深の友人や知人も、井深たちの仕事にたいへんな関心を寄せ、いろんな機器類の試作研究を依頼してくる。それを井深と小林は巧みにこなし、陸海軍の要望に応えた。
こうした一連の製品のなかで評判のよかったのは、濾波継電器である。これは特定の周波数だけに共振する継電器で、いろいろな周波数に対応するものを組み合わせ、呼び出し装置とか、無線操縦装置が手軽にできた。この装置の発信側に使ったのが、音叉と電気回路を組み合わせたものだった。この音叉と濾波継電器の変形が、次々に新しいものを生んで、会社の基礎となったのである。
そのうち、音叉にカーボンマイクロフォンを組み合わせて、三、四〇〇〇サイクルの発振器が真空管を使わないでできるようになった。これを電源にして音声を変調すると、簡単な有線電話用の秘密通話装置ができた。この装置を電話機につけると、ラインの途中で盗聴されても、盗聴している人には話の内容が全然わからない。従来、この種の装置は真空管を何十本も使わなければできなかった。それが、真空管なしの簡単な装置となったので、満州を拠点とする関東軍などから重宝がられ、結構使われたという。
やがて、太平洋戦争がはじまる。これを契機に陸海軍から電波関連兵器の機器の注文が急増し、手狭な工場では注文を消化しきれなくなった。そこで東京・月島の片倉工業の工場の一部を借り、従業員も当初の一〇倍ぐらいに増やした。
ところが、戦局の進展に伴い、腕のたつ従業員が軍隊に召集され、どんどんもっていかれる。これにはさすがの井深も音をあげた。その急場を救ってくれたのは、学徒動員で駆り出された学生たちであった。とくに上野の音楽学校(現東京芸大)の生徒は音感が鋭いだけに、仕事をすすめるうえで貴重な戦力になった。井深は次のように話している。
「音の周波数に関係のある機器の調整は、周波数測定器でやらなきゃいけないんです。ところが、学生諸君はそんなものを使わないで、自分の耳で合わせてどんどん仕事を片付けてくれる。そのくらいの音感がないと、オーケストラで演奏するなんてことできませんからね……」
学生たちは仕事だけでなく、昼休みや終業後、自分の得意な楽器をもちよって、従業員と一緒に音楽会を開くなど、職場の士気高揚にもおおいに貢献した。