昭和十八年に入ると、戦局は次第に深刻な様相を呈してきた。とくに日本軍のガダルカナル島全面撤退を契機に、アメリカ軍の攻勢は一段と激しさを増し、至るところで日本軍の劣勢が伝えられるようになった。電波兵器の優劣の差が招いた結果であることが認識されてきた。
これに伴って、日本測定器に対する陸海軍の要求は、必然的に過大になってくる。井深たちはその期待に応える成果を次々に生み出した。昭和十八年一一月、海軍航空技術廠計器部が開発した、航空機搭載用磁気探知機「三式一型」に使われた周波数選択継電器は、その成果の一つである。
これは、前述の濾波継電器に断続器を組み合わせた変形濾波継電器で、潜水艦探知を目的に開発されたものだ。
台湾、比島方面で活躍していた海軍の九〇一航空隊は、昭和十九年四月のアメリカ潜水艦探知を皮切りに、次第に威力を発揮しはじめ、多数の潜水艦を撃沈するなど大きな戦果をおさめた。
一方、これを知った陸軍もこの周波数選択継電器を使った熱線追従爆弾の開発を思いたった。現在の〈熱線ホーミング爆弾〉、あるいは〈熱線空対地ミサイル〉ともいうべき、画期的な新兵器であった。発案者は京大理学部物理教室の某教授で、これに陸軍技術本部、航空本部が目をつけた。そして東大工学部航空学科の守谷富次郎教授、東大航空研究所の糸川英夫助教授(いずれも当時)など斯界の権威を動員、具体化することになった。昭和十八年秋のことである。
井深も電子装置の開発要員の一人として、最初からこのプロジェクトに参画を命じられた。しかしこの仕事は容易でなかった。グライダー方式で滑空する有翼飛行体(爆弾そのもの)の本体は木製で、金属はボルト、ナット類に限られるという制約があったからだ。
基本構想がまとまり、本格的な開発に着手したのは、昭和十九年六月。当初の開発予算は八〇〇万円。いまの物価に換算すると、約八〇〇億円に相当する。各人の役割分担は、守谷教授と糸川助教授が飛行体、井深を中心とする電子関連技術者は心臓部にあたる熱線探知機、陸軍の技術陣が目に相当するボロメータ凹面鏡部分をそれぞれ担当した。その結果、井深らは継電器と熱電堆を組み合わせて、目標の熱源を探知する機器の試作に成功する。また一〇キロメートルぐらいの遠方から航空機や艦船の所在を発見する装置も、ともかくつくりあげた。ところが、有翼飛行体を、探知した熱源に向かわせるための方向コントロールがうまくいかず、開発は難渋をきわめた。
昭和十九年六月のサイパン島失陥で、アメリカ軍の本土侵攻は時間の問題といわれるほど切迫してきた。その前触れともいうべきB29爆撃機集団による本格的な日本本土空襲が、一一月下旬からはじまった。そして二十年一月にはB29大編隊の来襲は七回におよび、東京、名古屋周辺の軍需工場の破壊がはじまった。これを契機に日本側も軍需工場の疎開を計画する。だが、実際は構想だけでとても実行に移せる状態でなかった。
幸い日本測定器は、それを見越して以前から疎開先を物色していた。その結果、長野県須坂町(現須坂市)に、小さな製糸工場を見つけた。長野市の東、一四、五キロメートルほどのリンゴ園の跡地で、およそ七万平方メートル(二万坪)もあった。しかし、ここに工場を疎開させるには莫大な金がいる。そこで井深は神戸一中の先輩で、当時、満州重工業の理事をしていた三保幹太郎に会い、必要な資金を投資の形で出してもらうことに成功する。その出資額は全株式(資本金二五〇万円)の七〇パーセントに及んだという。会社が手がけている事業の将来性と、技術担当の井深の人柄に三保が惚れ込んだためといわれている。
月島工場にいた従業員の大部分は、疎開先の新工場に移っていった。地元の新規採用者を加え、従業員は八〇〇余名と一挙にふくれあがった。この地方は空襲の心配もなく、食糧事情もよかったので、生産意欲も高まった。
おかげで井深は、一日とて席を暖める暇がないほど多忙になった。月島、須坂の両工場の監督だけでなく、関係者との打合わせやテストの立会いもある。さらに陸海軍技術研究所幹部の提唱で、昭和十八年からスタートした軍官民合同の科学技術委員会の委員を委嘱されていた関係で、その会合にも出席しなければならない。しかし、それが井深の終生のパートナーとなる盛田昭夫と出会うきっかけになるのだから、運がよかったの一語につきる。
運命的な出会いの場となる科学技術委員会は、とかく対立しがちであった陸海軍の兵器研究体制を改め、軍官民が一致協力して兵器生産の着想を効率よく具体化しようという目的で発足したものである。井深が関係した研究会はその一部門で、電波、電子技術を使った新兵器の研究をすすめる分科会であった。
アメリカ軍の沖縄進攻作戦がはじまる直前、分科会は東京・丸の内の東京会館で初会合を開いた。出席者は陸軍の関係者、海軍のロケット誘導爆弾「奮竜」の関係者(このなかには、井深の大学時代からの親友であった海軍技研の新川浩技師もいた)をはじめ、斯界の権威や著名な技術者が多数参加していた。当時、海軍技術中尉に任官したばかりの盛田は、空技廠光学兵器部の担当部員として、この分科会にはじめて顔を出したのである。
井深はこの会を通じて知った、若いに似ずハキハキものをいう盛田がすっかり好きになってしまった。盛田も、井深の人柄と技術者としての見識の深さにだんだん惹かれていく。いつの間にか二人は、年齢、立場を越えて、親しく話し合うようになっていった。