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創造の人生13

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:終戦の日 その後、この分科会は何度か開かれている。だが空襲の被害が増大するにつれ、会場と食糧の確保がむずかしくなり、地方
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 終戦の日
 
 その後、この分科会は何度か開かれている。だが空襲の被害が増大するにつれ、会場と食糧の確保がむずかしくなり、地方のひなびた場所を見つけて開くという有様だった。しかも、研究会の場で耳にする話は、いずれも暗いものばかり。井深も終戦が近いことを肌で感ずるようになっていた。
 公務を利用して須坂の工場を訪ねた盛田も、井深と語り合ったことがある。「どんなにあがいても、この戦争には勝てない」と二人は結論を下した。科学技術の真髄を熟知しているものの実感であった。
 井深がそれを身をもって体験したのは、昭和二十年七月のことである。その頃井深は青森に出張していた。試作した熱線探知機のテストのためだった。当時、日本近海の海上交通は、アメリカ軍機による相次ぐ空襲と、巧妙な機雷投下作戦で、ほとんど麻痺状態となり、熱線探知機の実験可能な港湾は青函連絡船の発着港である青森ぐらいしかなかった。
 七月一四日未明、北海道東方沖に出現したアメリカ機動部隊は、早朝から艦載機を発進させ、三沢、青森、函館、室蘭などの軍事施設や工場、港湾施設に襲いかかり、激しい銃撃を加えてきた。その模様を井深は次のように述懐している。
「そのとき私は、青函連絡船を熱線でどこまで追いかけられるかという実験を、桟橋でやっていたんです。そうしたら、突然、艦載機の襲撃にあい、機銃掃射を受けました。バリバリと激しい音をたてて迫ってくる敵機を見たら誰もが震え上がりますよ。その機影が遠のくのはほんの一〇分か二〇分ぐらいだったと思いますが、その間の時間がものすごくかかったような感じでしたね」
 太平洋戦争中、井深がこんな恐ろしい思いをしたのは、あとにも先にもこれだけである。やがて空襲も終わり、広場に掘られたタコつぼから這い出した井深は、思わず息をのんだ。目の前で七、八隻の連絡船が黒煙を上げてズブズブ沈みかけていたからであった。めったに弱音を吐かない井深が「くやしいが、これで何もかもおしまいだ……」と、感じたのはこのときであった。
 井深が、終戦は時間の問題と知ったのは、須坂に帰ってからである。その頃軽井沢に住んでいた義父の前田多門が、近衛文麿公爵と終戦処理をめぐって密かに話し合っている事実を、それとなく聞かされていたし、自身もご法度の短波受信機を通じて、連合軍の動静をある程度つかんでいたからだ。
 山梨県の身延山の近くで定例の研究分科会が開かれたのはその直後のことだ。その席で井深と盛田はポツダム宣言発表の話を聞かされ、身の引き締まる思いに駆られた。
「いよいよくるべきものがきた」と、思ったのである。
 会が終わると、二人は東海道線の富士駅で別れた。そのとき「もしお互いに生きて平和を迎えられたら、手を携えて何か新しい事業をやってみたいものだ」と、話し合った。しかし、それはあくまでも井深の夢であって、簡単に実現するとは思っていなかった。勝手気ままに動ける井深と違って、盛田は愛知県の旧家の御曹司と聞いている。とすれば、身の振り方を決めるにしても、いろいろ制約や障害が出て、身軽に動けないだろう。そんな予感を井深はもっていたようである。
 運命の八月一五日を迎える。この日、井深は、終戦を告げる天皇の放送を樋口や安田たちとともに須坂工場の研究室で聞いた。すでに予期していたこととはいえ、現実に敗戦となると、さすがの井深も深刻に受け止めざるを得なかった。
 そのあと、会社の戦後処理を決める役員会が開かれた。そこで井深は一日も早く東京に戻ることを望んだ。固有の技術をもっていれば、どんな世の中になっても食べていけると信じていたからだ。これは戦争が終わる前から考えていたことである。これに対し専務の小林は「そんなにあわてて東京に出ることはないんじゃないか。ここにいれば当面の生活だけはなんとかなる。もう少し世の中が落ち着いてから東京に出るほうが得策」と、慎重論を唱えた。こうして首脳陣の意見は二つに割れた。だが井深は、自分の方針を変えるつもりはなかった。
 井深の考え方に同調する社員もいた。太刀川正三郎、樋口晃、安田順一、河野仁、中津留要、山内宣、黒髪定などであった。仕事をする仲間ができた。それを見届けた井深は、自分の遠縁にあたる太刀川を、下見のために上京させることにした。終戦の翌日のことである。
 井深が太刀川を上京させたもう一つの目的は、工場疎開のとき資金援助をしてくれた、満州重工業理事の三保幹太郎(当時は満州投資証券社長)を訪ねることだった。日本測定器の大株主である三保に、これまでの経過報告と、独立後の支援を取りつけるための布石であった。この辺の気配りは井深ならではの深慮遠謀といえる。井深は優れた技術者から、いつの間にか経営者の才覚を身につけていたのである。
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