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創造の人生14

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:東京通信研究所 終戦の翌日、東京在住の三保幹太郎に会うため上京した太刀川が、数日後、長野に戻った。その報告を聞いた井深は
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 東京通信研究所
 
 終戦の翌日、東京在住の三保幹太郎に会うため上京した太刀川が、数日後、長野に戻った。その報告を聞いた井深は、自分の目で東京の実情を見る必要を感じた。混乱をきわめていた交通事情のなかで手をつくして東京行の切符を手に入れた井深は、さっそく、単身上京した。もちろん、最初の訪問先は満州投資証券であった。三保の助言を仰ぐためであった。
 そこでたまたま同社専務の小倉源治に会った。小倉から「これからどうする」と聞かれた井深は「とにかく東京に出て、何かやるつもりだ」と答えた。小倉は「それなら金がいるだろう」と、一万円あまりの金を出してくれた。いまの一〇〇万円に当たろう。そのうえ「事務所が必要なら、白木屋を使え」と、三階の空部屋(配電盤室)を借りられるよう、便宜をはかってくれた。当時、日本橋白木屋も、日産コンツェルン(鮎川財閥、昭和二十一年解体)の管理下にあり、小倉の一存で自由になったのである。
 こうして東京進出拠点が決まった。その帰り、日本橋の大通りを通過する完全武装のアメリカ自動車隊、数十の行列にぶつかった。それを人垣越しに眺め、感慨にひたっていた井深は「日本は科学技術が劣っていたために戦さに敗れたのだから、これからは科学技術で国を建て直すしかない」と、痛感した。同時に一日も早く須坂を引き払い、上京すべきだと腹を決めた。
 井深と行動をともにすると誓った部下も同じ意見だった。しかし、仕事の引継ぎがあるため、八名全員が揃って上京するわけにはいかない。そこで二班に分かれ、須坂を離れることになった。井深を中心とした先発隊が東京に向かったのは、昭和二十年九月初旬のことであった。
 当時の日本橋白木屋は文字通りの焼けビルで、地下室が真空管工場、一、二階に古着屋などが雑居していた。久米正雄、川端康成、高見順など鎌倉在住の文士がつくった「鎌倉文庫」も、ここ白木屋の一室を発祥の地とした。三階以上は廃墟さながらで、入居者も少なかった、その三階の一隅に落ち着いた井深たちは、入口に「東京通信研究所」という小さな看板を掲げた。そして日本測定器から餞別代わりにもらった簡単な測定器、ボール盤と、わずかばかりの材料、部品を並べ、ともかく事務所兼工場を開くことができた。開所のための費用や最初の月給は井深が貯金をはたいて捻出した。こうして念願の東京進出を果たしたとはいえ、実際はこれから何をしてよいのか、誰にもわかっていなかったというのが実情であった。
 そこで全員で何度も話し合った。ブローカーをやろうとか、ヤミ料理屋、ベビーゴルフ場をつくっては……という意見も出た。だが井深はそんな仕事に手を出す気は毛頭なかった。やはり、儲けは少なくとも、自分たちが手がけてきた技術が活かせる仕事をすべきだと主張した。その結果浮かんだ案が、短波受信機をつくることだった。
 戦時中、一般国民は、海外から短波で送られてくる放送を連合国側の謀略宣伝として、みだりに受信することは厳禁されており、もし短波受信機をもっていることがわかればスパイ視され、憲兵に連行されても仕方ない情況だった。そんなきびしい制約のもとでも、こっそり盗聴し、連合国側の動きを知っていた人はかなりいた。井深もその一人であったことは前章で触れた。敗戦で短波受信も自動的に解禁された。そこで世界のニュースを聴きたい人が増えるのではという着想で、井深は短波受信機をつくる気になったのである。
 ところが、これが容易でないことがすぐわかった。真空管や関連部品の入手がむずかしかったからだ。そこで、普通の受信機に接続できる短波受信用のコンバーターをこしらえた。材料はありあわせのものを使っただけに、満足できるシロモノではなかったが、それでもポツポツ買ってくれる人が出てきた。
 その直後、井深は街頭で思いがけない人に出会った。義父の前田多門を通じて面識のある朝日新聞の嘉治隆一記者である。嘉治は東北大の渡辺寧教授と一高時代の同級生で、東大では嘉治が独法、渡辺が工学部電気工学科と、進路は分れたが、クリスチャンであった妹のひさが渡辺と恋仲になるほど親交があった。のちに東北大助教授になった渡辺は、大正十二年八月、ひさと結婚した。
 その嘉治は東大在学中から長谷川如是閑に師事し、評論を書くほどの論客であった。東大卒業後は東京にあった満鉄東亜経済調査局に入ったが、昭和九年に朝日新聞に転じ、もっぱら政治畑で健筆をふるっていた。
 戦争末期には、渡辺を介して知り合った海軍技術研究所の伊藤庸二技術大佐にはたらきかけ、駒場の一高生を目黒の海軍技研や静岡県島田の技研分室に勤労学生として大量に送り込み、明日の日本を背負う貴重な人材の温存に一役かうなど、多彩な活動をしている。井深が偶然出会った頃、嘉治は論説主幹として連載コラム〈青鉛筆〉の執筆を担当していた。
 井深の近況を聞いた嘉治は「それはおもしろい。うちの記事で紹介してあげよう」と、約束してくれた。そして一〇月六日の朝刊(当時は紙不足で朝刊のみ)に「家庭に現在あるラジオにちょっと手を加えれば、短波放送がすぐ受信できるという耳よりな話」という書出しの記事を書いてくれた。これが評判になって、記事が出たその日から事務所に客が押しかけ、行列ができたほどであった。こうして発足間もない東京通信研究所もやっと仕事の緒口を見つけることができたのである。
 この記事の恩恵はほかにもあった。お互いに気にしながら、終戦のどさくさで消息のわからないままになっていた盛田から手紙がきたことである。盛田も愛知県知多郡小鈴谷の実家でこの記事を読み、懐かしさのあまり、手紙を書く気になったのだ。井深も折返し上京を促す返事を書いた。井深、盛田の交際がふたたびはじまり、「東京通信工業」設立の機運が盛り上がってくるのである。
 
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