盛田と再会を果たし、前途に明るさを見出したとはいえ、はじめた事業は相変わらず一喜一憂を繰り返していた。短波受信用の真空管が思うように手に入らないのだ。みんなで手分けして新橋、銀座、上野、浅草などのブラックマーケット(闇市)を駆けずり回り、旧軍の放出品や進駐軍の払下げ品を見つけてくるという有様だった。
「これでは月給を稼ぐのも容易じゃない」
と、井深は思った。そこで短波受信コンバーターのほかに儲かる商品をつくるのが急務になった。そこで電気炊飯器に目をつけた。
その時分、小麦粉を練ってパンに焼くお粗末なパン焼き器が、ブラックマーケットに出回っていた。木箱の内側に電極となるブリキ板を張りつけ、練った小麦粉を入れ電気を通すという仕組みになっていた。井深は、パンが焼けるなら、米だって炊けるはずだ、と思ったのだ。
さっそく、千葉まで人をやり、おひつを一〇〇個ほど買って来て試作にとりかかった。おひつの底にブリキの電極を張り、といだ米を入れ、電流を流し、ご飯を炊くという商品だった。ところが確かにご飯は炊けるが、水加減や米の質によってシンがあったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることはめったにない。これには当時の不安定な電力事情にも一因があったが、さすがの井深もサジを投げてしまった。
しかし、社員や来客はこの炊き出しを結構楽しみにしていたようだ。とくに住む家が見つからず、工場の一隅にふとんを持ち込み寝泊りしていた社員たちにとっては、大きな恩恵であった。当時、上京するたびに白木屋の事務所に顔を出していた東北大の永井も、こんな話をしている。
「あの頃、東京へ出てもメシを食うところがない。そこで井深君のところへ寄っては、メシをご馳走になったものです。よく炊出しをやっていたのでね。ただ、あの事務所は狭いうえに雑然としていた。あれには閉口した。でも働いている人たちはみんな気持ちのいい人ばかり。それだけに活気はあるし、雰囲気もとてもよかった」
ヤミ米の買出しを一手に引き受けていたのが、井深の遠縁にあたる太刀川正三郎である。太刀川は函館の海産物問屋の息子だったが、大学を卒業すると井深のいた日測に入り、総務の仕事をしていた。その経験をかわれ、東通研では総務、経理、人事全般を受け持つことになった。その最初の仕事がヤミ米の買出しだったわけだ。
もちろん、東通研が手がけた仕事はそれだけではない。この時分、井深の教え子であった安田順一が、日測時代から研究していた真空管電圧計の製品化に成功、昭和二十一年二月には逓信省(郵政省)から一〇〇台ほど受注することができた。これを契機に他の官庁や民間会社からも注文が入るようになり、事業は曲がりなりにも軌道に乗るようになっていた。
「いつまでも個人企業では、具合が悪い」
井深がそんなことを真剣に考え出したのは、この前後のことである。発端は昭和二十一年二月一七日に幣原内閣が断行したインフレ対策の強権発動である。これは金融緊急措置令と日本銀行預金令の二つからなっていた。その一つは「昭和二十一年二月一七日現在、金融機関にある個人、法人すべての預金、貯金、金銭信託その他を封鎖する」という、いわゆる『預貯金封鎖』と、第二は「現に流通する紙幣を、三月六日までに廃止し、三月七日から新たな紙幣を発行する」という『新円切換え』であった。
これをいきなり実施すると混乱を招く恐れがある。そこで第三の措置として、次のような条項がついていた。
(1)一世帯について、生活資金として、世帯主三〇〇円、家族一人一〇〇円に限り、封鎖預金のなかから、現金(新円)を引き出すことができる。
(2)給与、賞与その他は五〇〇円まで、現金(新円)で支払うことができるが、五〇〇円を超えるときは、超過分は封鎖預金の形で支払われなければならない。
(3)結婚、または葬祭のために一〇〇〇円以内、世帯を異にする学生の教育のために五〇〇円以内は封鎖預金から、現金(新円)を引き出すことができる。
(4)事業者に対しては、業務遂行に必要な通信費、交通費などは、金融機関から、現金(新円)の引出しが認められる。
つまり、どんな高額所得者も、新円の現金でもらえるサラリーは、月五〇〇円まで。それ以上は、いやおうなしに預金として封鎖されてしまうということになったのである。
発足間もない個人企業にとって、たいへん辛いことであった。井深の貯えも底をついてきたし、事業運営の資金繰りもむずかしくなるからだ。そこである日、井深は、東工大の講師をしながら無報酬で研究所の仕事を手伝っている盛田に、会社設立の相談をもちかけてみた。以前から、もし一緒に仕事をするなら井深以外にいない、と考えていた盛田も、新会社設立には双手を上げて賛成した。すでに盛田自身もそのつもりで、大学をやめる下工作をはじめていた。
そのきっかけは、昭和二十年一〇月末、GHQ(連合軍最高司令部)が発表した旧職業軍人の教職就任厳禁の通達である。これが実施されれば、当然、盛田も教職を去らなければならない。盛田はそれを見越して、主任教授に辞任の意向を伝えてあった。
ところが、主任教授は、文部省から正式通達がきていないことを理由に、辞表を受け取ってくれない。井深から新会社設立の相談を受けたのは、その直後だった。これで盛田も腹を決めた。そしてこんどは主任教授だけでなく学長にまで、辞任を許可してくれるよう積極的に働きかけた。そのねばりが功を奏し、辞表を受理されたのは昭和二十一年三月のことであった(文部省が盛田に対し教職追放の通達を正式に出したのは、それから半年後で、その間、大学当局は盛田に規定通りの給与を支給していた)。