東通工の井深と盛田は、新任の倉橋を交え、テープコーダ販売のあるべき姿について、何度も協議を重ねた。その結果、買いやすい手頃な価格の商品をつくるべきだと結論した。それに関連して井深は次のようにいう。
「うちがテープコーダをつくったときは、あらかじめ使う目的とか、需要を深く考えてつくったのではなかった。〈ラジオの次にわれわれの持てる技術を活かしてできるものは何か〉ということからスタートしたわけです。だから、少々値段が高くてもこんな便利なものが売れないはずはない、と単純に思い込んでしまった。それが間違いのもとだった。そこで、こんどは発想を逆にして、需要を喚起するにはどうすべきか。どんなものをつくれば消費者に喜ばれるかを、もっと勉強しなきゃという結論に到達したんです」
幸いアメリカのテープレコーダについていたマニュアル〈テープレコーダ99の使い方〉が手に入った。中身は、いろんな分野での使用法を簡単に列記した程度のものだったが、盛田や倉橋にとっては、貴重な参考書になった。
二人は、この小冊子をたたき台にして検討を重ね、独自のマニュアルをつくってみた。それも、教育用、事務用、放送演劇用、宣伝用、慰安・娯楽用、通信用、研究・測定用、盲人のためのトーキングブックなど、多彩な分野に及んでいた。
あとは、機械を小型軽量にして使いやすくすることである。井深の内意を受けた開発担当の木原は、帰宅後、夜食もそこそこに、考えはじめる。構想がまとまったのは東の空が明るくなりかけた頃だった。ちょっと仮眠し、定刻に出社するとすぐ図面引きにかかる。それをもとに、たちまち二台のバラックセットをつくりあげた。昭和二十五年八月下旬のことである。
「それを井深、盛田のご両人に見せたんです。そうしたらすぐつくれという。そこで関係者を熱海の旅館に集め、合同会議を開くことにした。技術的な問題点とか、工作上の段取りを、いろんな角度から検討して一気に生産に入れるようにするのが目的でした」(木原信敏)
会議に出席したのは、井深、盛田をはじめ、木原、北条、法眼、関根、竹内、稲賀といった面々で、いずれも設計、工作の各部から選ばれた気鋭の技術者であった。
このうち、井深と盛田は、最初の一晩だけ同席、翌日東京に戻った。その帰り際、井深は「ものができる確信がもてるまで帰ってくるな」と厳命した。〈東京にいると、雑事に追われ仕事がはかどるまい。だからここで納得のいくまで問題の解決に専念しろ〉というわけである。
木原が、H型と称するポータブル形式の試作機をつくりあげたのは、二ヵ月後の一一月中旬。それをもとに厳密なテストを重ね、問題箇所は改良し、一二月には五〇台の見本生産をはじめるというスピードぶりをみせた。
そのため生産現場は火事場のような騒ぎになった。G型の改良機の生産と平行し、普及機のH型が割り込む形になったからだ。最たるところは、木造三階建て新社屋の二階に設けられた組み立て現場である。外注部品が間に合わなかったり、配線ミスに気づかず組み立て、感電するというアクシデントがしばしば起きた。そのたびにどなられるのは、外注部品を受け持つ購買担当者か電気知識の乏しいメカ屋たちであった。
「あの頃は、ひとくせもふたくせもあるサムライが多かったせいか、どなり合いやケンカ沙汰はしょっちゅうありました。それも、一刻も早く製品をつくりあげたいという気持ちから出たものだし、変なシコリを残すようなことはまったくなかったですね」(北条司朗)
あわただしい思いをしながら、ともかく、五〇台の普及機〈H型〉をつくりあげた技術陣は、その余勢を駆って本格的な生産に乗り出した。当面の目標は月産二〇〇台、四月の入学シーズンに間に合わせようと考えたのだ。ところが、実際に生産されたのはその半分の一〇〇台。量産技術が未熟だったこと、外注の関連部品に問題があったことなどが原因であった。
井深は、日本の磁気録音機技術の草分けで、旧知の多田正信(当時、日本電気技師長)を技術部長として東通工に迎え入れることにした。また阪大、海軍技術士官時代、盛田と同じ釜のメシを食った児玉武敏(当時、阪大理学部助手)も、盛田のたってのすすめで東通工に入ることになった。このように、東通工はこれはと思う有能な人材を随時スカウトし、ウイークポイントの補強に努めていた。だが外注部品の質の悪さまでには手が回らない。入社早々、岩間製造部長づきとして、メカニック関係のまとめ役をまかされた児玉は、当時の問題点を次のように振り返る。
「H型の量産でいちばんのネックだったのは、モーターとゴム、それと外箱だった。電気部品とか、機械部品はなんとか一応のレベルのものが揃った。ところが、肝心のモーターは一日に一〇台ぐらいしか入ってこない。そのうち使えるのはせいぜい二台。これじゃ量産なんてとてもできません。ゴムもまったく同じ。あの機械には合成ゴムがいろんなところに使われている。たとえば、動力を伝えるベルト、ピンチローラー、アイドラー、それとモーターの振動を押さえるクッション材料などだが、合成ゴムのいいのがなかなか手に入らない。それが悩みのタネでした」
そこで児玉はつてを求めて名古屋に飛んだり、高等学校時代の後輩を訪ね、研究を委嘱するなど、ゴム材の改良に努めた。その後になって、東通工がテープコーダで他社を引き離し、優位を保てたのも、ゴムに関する隠れたノウハウを数多くもっていたからである。