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創造の人生26

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:市場創成 盛田が八雲産業から倉橋をスカウトして「東京録音」を設立した頃、GHQのCIE(民間情報教育局)は、AVE(オー
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 市場創成
 
 盛田が八雲産業から倉橋をスカウトして「東京録音」を設立した頃、GHQのCIE(民間情報教育局)は、AVE(オーディオ・ビジュアル・エデュケーション、視聴覚教育)の普及に力を入れはじめた。戦前の観念的教育から視聴覚教育に切り換え、戦争放棄の思想を、視聴覚的に子供の時代から植えつけていこうという政治的な狙いが含まれていた。
 CIEはその一環として〈ナトコ〉という一六ミリトーキー映写機を数千台用意し、各都道府県の教育委員会を通して小、中学校に貸し出すと発表した。オーディオを担当するNHK(当時、日本放送協会)も、局内に放送教育研究会を設け、学校向け放送の質的向上をはかる体制づくりに着手した。倉橋はこれに目をつけた。学校向け放送の教材にテープコーダを使ってもらいたいと思ったのである。
 井深、盛田の了解を取り付けた倉橋は、さっそく、文部省とNHKに働きかけた。もちろん、両者とも異論をさしはさまなかった。倉橋は東通工社内に録音教育研究会という任意団体をつくり、全国の小、中学校を片っ端から訪ね歩いた。そして機械の存在を知らない教師に現物を見せ、テープコーダが視聴覚教育にいかに役立つかを熱心に説いた。
 このデモンストレーションは、大きな反響を呼んだ。東通工に問い合わせや、注文が殺到しはじめた。前述のH型はこの教材用につくられた機械だったわけだ。
 井深と盛田は、マーケット・クリエーション(市場創成)の大切さを身をもって知った。同時に製品の販売ルートの確立が急務であることを痛感する。その頃の東通工の販売部門は東京の丸文と、盛田の実家が経営する大阪の山泉の二社が担当していた。少数のマニアを対象に商売するならそれでこと足りたが、全国の小、中学校が対象となると、もっと信用のある有力代理店の協力をあおがないと商売に結びつかない。盛田が目をつけたのが「ヤマハのピアノ」で知られる日本楽器製造(現在、ヤマハ)であった。
 ヤマハは、全国の学校にピアノを納めていた関係で教育界には大きな影響力をもっていた。しかし、取り扱う商品は自社製品に限ると決めている。それをどうやって説得するかが問題だった。盛田はこの仕事を倉橋と営業部長の笠原にゆだねた。当時、ヤマハは、三八歳の川上源一が厳父嘉市のあとを継ぎ、四代目社長に就任したばかり。その川上を浜松市の自宅に訪ねた倉橋と笠原は、テープコーダを見せながら「これは音楽教育にも必ず役に立ちます」と、熱っぽい調子で訴えた。はじめ難色を示した川上も、倉橋のねばりに根負けして、自社の支店、代理店を通じてテープコーダを売ることを承諾した。
 これを契機に、盛田は、丸文と山泉を合併させ、販売代理会社「丸泉」を発足させる。こうして、ヤマハと丸泉による二社販売体制ができあがった。この提携関係は昭和三十一年で終止符を打ったが、この間、東通工は、ヤマハが長年にわたって築き上げた商売上のノウハウを、数多く学ぶことができた。しかし、ヤマハは、もともと楽器をつくり販売するのが本来の仕事だけに、電子機器の取扱いに馴れていない。そのためちょっとした故障でも、東通工から技術者を差し向けなければならない。そのわずらわしさを排除するため、東通工は地区ごとに技術者を常駐させ、巡回サービスを実施するように仕向けた。この経験が、修理サービスの在り方について数多くの教訓を残してくれた。
 また販売先を学校や特定の地域だけに頼っていると、思わぬ落とし穴があることも知った。たとえば、学校では、予算切換え前後の二〜六月頃の間に需要が活発になるが、その他の時期はさっぱり売れない。需要の時期的偏在は、当然、生産計画にも大きく影響する。
 こうして井深と盛田を中心とする〈技術者集団〉は、創成期、テープコーダの販売を通じて、商売の鉄則ともいうべき基本理念を身をもって学んだ。その教訓が「自ら計画し、自らマーケットをつくり、自らの販売計画で売るべきである」という、今日のソニーの経営理念につながったのだ。
 東通工は、この前後からやっとコンシューマ商品を手がける会社らしい体制を整えはじめた。とはいえ、作業現場は雑然としていて、工程の流れが悪い。これでは生産量を増やすこともできない。そこで盛田は、代表的な量産メーカーを訪ね、流れ作業の実態を見学したいと思った。その候補に選ばれたのが早川電機(シャープ)であった。
 この橋渡しをかって出たのは、児玉武敏である。早川電機社長の早川徳次は、シャープペンシルの発明者としても有名な存在だった。鉱石ラジオから真空管式ラジオ生産の豊富な経験をもっていただけに、戦後、復活したラジオ生産があたり、業績をどんどん伸ばし、注目されていた。その早川と児玉の父親は旧知の間柄であった。
「うちの親父は、クラブ化粧品をつくっていた中山太陽堂の副社長をやっており、戦前から早川さんと交遊があったんです。早川さんは関東大震災で東京を焼け出され、大阪に転居されていた。そしてしばらく中山太陽堂におられた。そんな関係で僕も早川さんを存じ上げていた。そのつてを頼って、まず盛田と私が工場を訪ねた。それも私の友人という名目で見学させてもらった。そうしたら盛田がうちの幹部にもぜひ見せたいといいだした。そうなると、私の友人じゃまずい。そこで改めて事情を話し了解を取り付けたうえで、樋口、岩間、笠原の三人に行ってもらいました」(児玉武敏)
 この見学が生産ラインを見直すうえで、どれだけ役立ったかはかり知れない。早川は、その後、工場長を上京させ、東通工のために適切な助言をするよう仕向けてくれさえもしている。
 
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