助言といえば、当時、東通工にもう一人、うるさいアドバイザーがいた。東京芸大の学生であった大賀典雄(のち社長)である。大賀が井深の遠縁にあたる沼津の西田嘉兵衛の紹介状を携え東通工を訪れたのは、G型の原形となった最初の試作機ができた直後であった。
その頃大賀は、芸大音楽学部の一年生。声楽家志望であったが子供のときから機械いじりが大好きで、外国の文献などを通じてテープレコーダのこともかなりくわしく知っていた。大賀が録音機に関心をもったのは、次のような動機からである。
「バレリーナが鏡の前で演技し、技能の向上をはかっているのと同じように、音楽家にも鏡が必要なんですね。それには録音機がいちばんいい。それもコスト的に考えると磁気録音機がもっとも適している。そこで私が最初に目をつけたのが、日本電気さんがつくっていたワイヤーレコーダでした。さっそく、会社を訪ね、関係者を紹介していただいた。そのときお目にかかったのが多田正信さんでした」(大賀典雄)
ところが、購入するつもりでテストしてみると、録音特性はよくないし、ブレーキ操作をちょっと誤ると、ワイヤーがからんで動かなくなる。これでは使いものにならないと判断した大賀は、購入をあきらめることにした。
そんな折、東通工がテープによる磁気録音に成功したという耳よりなニュースを、近所に住む西田家の当主から教えられた。そこで井深に会ってみたいと思ったのである。せっかくの会見であったが、残念なことに、その日は井深が多忙で十分時間がとれず、大賀が一方的にしゃべるだけで終わった。
それから数日後、たまたま倉橋が芸大にテープコーダを売込みに出かけた。応待に出た学長は「僕は機械のことはよくわからない。だがうちの学生にたいへんくわしいのがいる」といって、一人の学生を呼んだ。それが大賀だった。大賀と会った倉橋は、その博識ぶりにすっかりのまれてしまった。会社に戻った倉橋は「実は、今日、たいへんな学生に会いました」と、井深に大賀のことを話した。これを聞いた井深は「へェー、あの男がね」と思わず苦笑した。いいたいことを一人でしゃべりまくり、昂然と引き上げていった柄の大きい生意気な学生の姿が脳裏に浮かんだのである。
「もう一度会ってみよう。だが技術にくわしいといっても、しょせんは音楽学校の学生だよ。そのメッキは僕がはがしてみせるよ」
そのとき井深は、大賀をその程度にしか評価していなかったのだ。ところが、改めて話し合ってみると、開発陣が直面している問題点を容赦なく衝いている。これにはびっくりした。最後には「あなたは、テープレコーダに関して、専門家以上の知識をもっているね」と賞賛せざるを得なくなった。
これが機縁で、大賀は、東通工に出入りするようになった。大賀は勝手に工場のなかに入り込み、機械をいじくり回し、関係者に注文をつける。井深も盛田も、ものおじせず思ったことをズバズバいってのける大賀のおおらかな性格と、音楽家らしい鋭い感性を高く評価し、ますます好意をもった。そして、いつの間にか、この男をモニターとして新しい機器の開発に協力させようという気になっていた。
木原たちが芸大にG型の試作機をもちこみ、学内で行なわれる演奏活動を収録させてもらえるようになったのも、大賀の口利きであった。そして、開発した機器の性能を何度もテストし、改良すべき点は改良し、新しいG型をつくりあげた。
「最初は電力事情の関係で思わぬ失敗もあったが、機械は着実によくなった。心配していた高音も思ったよりきれいに入ってましたからね。そこで芸大でも一台購入しようということになり、予算をとってもらった。そのとき、標準仕様だといい音がとれないので、一部を手直しさせたわけです。ワウフラッターを減らすためにピンチローラーをつける、ピアノの音が聞ける程度まで質を上げて、納入させるといった具合にね。ところが、あとがたいへんだったんです」と、大賀は苦笑する。東通工から法外な代金を請求されたからだ。特別のプロジェクトをつくり製造したのだから、値段が高いのは当たり前だといいはる。これには大賀もおこった。そして「アイデアを提供し、音質をよくしてやったのは私じゃないか。だからよぶんなものはいっさい払わない」と、逆に営業担当者に噛みついた。
もっとも、大賀のほうにも払うに払えない事情があった。学校の予算枠が決まっていて、追加支出を認めてくれないからだった。そこで大賀は、井深を訪ね「こんなことじゃ困る」と訴え、とうとう予算の範囲内で納入させることに成功したという。このように、大賀は、学生時代から相手を説得し、自分のペースに巻き込む特異な才能と、人を引きつける不思議な魅力をあわせもっていたのである。
井深はそんな大賀がますます好きになった。そして、何かにつけて大賀に問題解決を依頼するようになった。新しい機械ができると、テストして悪いところを指摘してくれと声をかける。大賀も喜んで応じた。勉強になるし、趣味の機械いじりを満足させる手段になるからであった。
一進一退を繰り返していたテープコーダ技術の、発展向上を促す機運がもちあがった。発端は、昭和二十五年五月に公布された電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)の実施である。これによって戦前、戦後、国およびアメリカ軍の監督下にあった電波は、はじめて民間にも開放されることになった。その結果、全国的に民放開局ブームが起こり、弱電業界に大きなビジネスチャンスをもたらしたのである(昭和二十六年九月一日に新日本放送、中部日本放送がまず開局された)。