その恩恵を享受した最右翼は家電業界であった。ラジオ受信機の滞貨を大量に抱え、税金も払えなかった松下電器、早川電機(シャープ)などが、手もちの在庫を一掃し、増産に次ぐ増産を重ねても需要を捌ききれないという状況になった。
もっともはなばなしく脚光を浴びたのは東通工であった。定評のあったコントロールパネル(調整卓)が売れただけでなく、テープコーダが民放の番組編成の切り札になったからである。その辺の事情を当時の関係者は次のように語っている。
「あのときナマ放送でやっていたら、民放は一年はおろか、半年で潰れたでしょうね。それを支えてくれたのがテープレコーダだった。ところが、朝鮮動乱のおかげでアメリカの機械が手に入らなくなった。そこで急遽、東通工の機械導入に切り換えたが、初期のものは音が悪くてね。ずいぶん泣かされたものです」
その頃使われたテープコーダは、放送局向けにつくられた据付型の機械で、三回路のミキサーを内蔵しているのが特長だった。関係者がこの機械を定着させるまでには、たいへんな苦労を強いられた。テープレコーダがどんな機械か知らないスポンサーが多かったからだ。
それを象徴するような話がある。ある日、某民放局の営業担当者が、東通工の技術者とあるスポンサーを訪ねた。録音したテープを聞いてもらうためである。あらかじめ何日に訪ねると連絡してあったので、当日は社長以下の重役陣が会議室のテーブルを囲んで待ち受けていた。席に着いた営業担当者は商談に先立って、まず民放の役割とテープレコーダをなぜ使うかという話をはじめた。
ところが、社長はじめ全員が「こんなものに声が入れられるわけがない」といいはる。そうなると、民放の営業担当者では答えられない。そこで東通工の技術者が「このテープには磁気を含んだ塗料がついていて、それで声が録音できる」と説明した。だが、スポンサー側はまだ信じられないという顔つきをする。そのうち重役の一人がテープを取り上げ、いじくり回していると、テープがはずれバラバラにほどけてしまった。おかげでその日はレコーダにかけられず、改めて出直すことにしたという。
失敗話もあったが、この時期、東通工のテープコーダが民放の発足に非常に大きく貢献したことは紛れもない事実である。東通工の技術陣はこれをスプリングボードとして、新製品の開発、在来機の改良に全力を上げて取り組んだ。
その成果の一つが、木原の開発したポータブル型の磁気録音機(通称デンスケ)である。昭和二十六年、太平洋戦争の講和会議の取材のためアメリカに出張したNHKの藤倉修一アナウンサーがサンフランシスコ空港で、ソ連のグロムイコ外相の声を収録できたのも、このデンスケがあればこそであった。
視聴覚教育で基盤づくりを終えたテープコーダの需要が放送分野にまで拡がると、磁気テープの質的向上が重要な課題になってきた。前にも触れた通り、東通工が売り出したクラフト紙をベースにした磁気テープは、音声の録音ではあまり問題はなかったが、音楽の録音、とくにカスタネットのような高い音の場合は、アメリカ3M(スリーエム)社の「スコッチ」テープに比べいちじるしく劣っていた。これはテープ面と磁性粉の抗磁力特性が悪いためであった。
テープ開発の責任者である戸沢は、化学屋の天谷、徳本を督励して、磁性粉の改良と開発に取り組ませるかたわら、自身も磁性粉の針状結晶の研究に力を入れていた。
その直後、井深宛に一通の手紙が届いた。差出人は東北大学計測研究所の所長、岡村俊彦教授だった。
「貴社は磁気テープを開発、商品化されたが、当研究所でも磁性鉄粉並びに、その酸化物の研究を行なっている。同じ方面の研究であるから一度討論してみたい。当研究所の磁性粉を同封したので批評してもらいたい。またよろしければ、貴社の磁性粉も測定してみたい」
東通工と岡村教授の交流はそれからはじまった。岡村教授の研究するフェライト系磁性材料は、テープレコーダのヘッドや磁気テープの製造に必要欠くことのできない貴重なものと判断したからであった。盛田の実弟で、その年(昭和二十六年)東京工大電気化学科を卒業、東通工の一員になったばかりの盛田正昭(のち副社長、相談役、ソニー生命保険会長)を、技術習得のため岡村研究室に派遣したのも、将来への布石の一つであった。
民放の開局ラッシュが最盛期を迎えた二十六年後半になると、日本の放送界もスコッチ製のアセテートベースの録音テープを使いはじめた。テープ表面が平滑で、周波数特性が格段に優れているからだ。そこで東通工もアセテートベースの入手を考え、富士写真フィルムにはたらきかけるなど八方手をつくしたが、いずれも実らなかった。二十七年に入ると、アメリカ製のアセテートベースの録音テープの輸入規制が解禁され、市場に出回るようになった。このため東通工は次第に窮地に追い込まれる。この急場を切り抜けるにはアセテートベースを輸入するしか手がない。だが当時、戸沢たちはどのメーカーのものを、どこを通して買えばよいのかまったく知らなかったのである。
そんなある日、戸沢は、所用があって購買課に顔を出した。すると、「戸沢さん、戸沢さん」と、誰かに呼び止められた。振り返ると、見馴れぬ外人を連れた井深が足早に部屋に入って来た。そして「この人がセラニーズ社のアセテートベースを輸入してあげるというんだ。一緒に話を聞かないか」と、はずんだ声で戸沢を誘った。
その外人は在日貿易商「二〇世紀商会」のパーシィ・プリーンという人で、セラニーズ社の駐日代表を兼ねているという触込みであった。ある程度、日本語も話せる。おかげで話もトントン拍子にすすみ、アセテートベースの購入話がやっとまとまった。
やがて、待望のアセテートベースが入荷する。戸沢たちはそのテープをベースに磁性粉を入れた塗料の試し塗りをしてみた。ところが、なぜか塗料がペロッとはがれてしまう。テープ表面が平滑すぎるのである。戸沢たちは連日のように会議を開き、対応策を検討した。その結果、ビニールホルマー系の塗料を開発、それで下塗りし、その上に磁性材塗料をコーティングする方式を考え出した。こうして日本でもアセテートベースの磁気テープができるようになり、テープレコーダの普及にいちだんとはずみがついたのである。