もう一つの担当部局、特許庁通信測定課は逆に「東通工のとった措置は正しい」と、全面的に支援する姿勢を明確にした。その背景には、バヤリース・オレンジや日本コーラ事件などで、日本のメーカーが、アメリカから意匠・商標権の侵害などで、手痛い目にあわされたことに対する反発も多分にあったかもしれない。
とはいえ、この通産省と特許庁の対立が問題をいっそう複雑にしたことは紛れもない事実であった。その辺は、当時、NHKにいた島茂雄の話を聞いてみるとよくわかる。
「あの問題は、井深君から事前に話があったので、ある程度事情は知っていました。ただあのころは、ぼくも井深君も若かったし、非常に向っ気が強かった。正しいと思ったことはおおいにやるべきだなんていったかもしれません。しかし、ぼくはあくまでもNHKの人間。だからえこひいきはできない。したがって、バルコム貿易が売込みにくれば、一応、検討する。そしてものがよければ購入せざるを得ないわけ。そんな関係で、僕も上司の技術局長や副会長に呼ばれ、実際はどうなんだ、大丈夫なのかと、何度か聞かれたことがあります」
担当官庁や業界の受け止め方がマチマチだったせいか、バルコム貿易も黙っていなかった。占領軍の力を借りて東通工に圧力をかけてきた。井深が、東京丸の内の岸本ビルにあったGHQのパテントセクションに出頭を求められたのはそのためであった。
通知を受け取ったとき、井深は、一瞬いやな予感に襲われた。「そのまま巣鴨の拘置所にぶち込まれるかも……」と、思ったのだ。だが、それは井深の取越し苦労にすぎなかった。
「英語の達者な義父の前田多門と一緒に出頭したら、パテントセクションの大佐が意外に紳士的なんです。そこで事情を説明したら『オーケー、なんとか善処しよう』と約束し、あとはコーヒーを入れて僕等にすすめる。これでホッと一息ついたんです。おかげで翌年の五月に開かれた第一回の公判でも、われわれの主張が全部通り、その後の展開が有利になりました」(井深大)
この問題が全面的に解決するまでには、若干時間がかかった。途中からM・カムラスの特許権所有者であるアメリカのアーマー・リサーチ社が表面に出てきたからだ。同社は、アメリカをはじめ、世界二一ヵ国の特許実施権を取得していた。したがって、東通工は同社と技術援助契約を結ばなければテープコーダを輸出することができない。東通工にとって、こんな間尺にあわない話はなかった。
東通工は、アーマー・リサーチと直接交渉をはじめることにした。その場合、同社がM・カムラスの特許を取得する前に、永井特許がアメリカで公開されていた事実を証明しなければならない。その仕事をかって出た盛田は、八方手をつくして調べ上げ、やっと証拠を入手することができた。井深が飛び上がって喜んだことはいうまでもない。これを武器に、アメリカで訴訟を起こせばアーマー・リサーチの保有する特許は、社会の共有財産ということになり、効力を失うからである。
この事実を知ったアーマー・リサーチも、永井特許の合法性を認めざるを得なくなり、二十八年三月、訴訟を取り下げ、東通工の言い分通り和解することになった。
こうしてアメリカ勢の上陸を水際で防げただけでなく、永井特許を共有する東通工と日本電気は、日本で売られているテープレコーダ全部(放送局が買い上げていた大型のアンペックス製の機械を含む)から、特許使用料をもらい受けることができるようになる。また、アーマー社の責任を問わないことと引換えに、アメリカにおけるアーマー社の特許の無償使用権を得ることを認めさせた。しかもこの権利は、日本国内の他のメーカーに適用することもできる。ただし、権利を取得したメーカーが製品を輸出する場合は、その使用料の半分を東通工に払わなければならないという条件つきであった。つまり、東通工と日本電気は、永井特許を共有したことによって思わぬメリットを享受できたのである。
だが、これが業界の反発を招く原因になる。業界は永井特許の公開を求めてきた。なかには特許の盲点をついて、新しいシステムを開発、挑戦を試みるメーカーもあった。その先鞭をつけたのはオーディオマニアの技術者集団を自認する赤井電機の赤井三郎である。赤井は永井特許に抵触するのを恐れ、回路にちょっとした工夫をこらし、〈新交流バイアス法〉という技術を考え出した。そしてその回路を内蔵したオープンリール式のテープレコーダ・キット〈AT‐1型〉をつくりあげ、市場に参入してきた。二十九年八月のことである。
東通工は、さっそく赤井電機に「特許を侵害している」と厳重に抗議した。ところが、赤井は「われわれが独自に開発したもので、永井特許には抵触してない」と、つっぱねた。そこで東通工は、赤井電機を告訴し、解決を法の場に求めた。東通工対赤井のしのぎを削る開発競争はそれからはじまった。
一方、特許に縛られ、つくりたくてもつくれない同業他社は、赤井の巧みなゲリラ戦に拍手を送るとともに、東通工の頑なな姿勢を批判した。そして政治力と金の力にものをいわせ、陰に陽に圧力をかけてくる。儲かりそうなものなら意地も面子もかなぐり捨て、なんでも手がけたがる、いわゆる「技術タダ乗り論」である。それが日本の大メーカーのむかしからの図式といったらいいすぎだろうか。井深や盛田は、こうした業界の姿勢を苦々しく思っていた。ましてテープコーダは、自分たちの血と汗でつくりあげた技術であり、市場である。簡単に特許を公開するわけにはいかないと考えたのも当然であった。