盛田は西ドイツ、オランダの代表的な企業を見て回り、一一月中旬、日本に帰って来た。WE社との交渉の経過、工場で見聞したことをすべて井深に報告、そのうえでトランジスタを何に使うか改めて話し合った。盛田はWE社の技術者から補聴器をつくれとアドバイスを受けている。だが、井深も盛田もはじめからそんなものをつくる気はなかった。
「トランジスタをつくるからには、広く誰もが買ってくれる大衆商品を狙わなくちゃ意味がない。そんなことを考えるとラジオがいちばんいい。盛田君、僕等はラジオに挑戦してみようじゃないか……」
井深は、盛田にそう提案した。盛田もその意見に賛成した。トランジスタの原理を考えればやってやれないことはないと判断したからである。
これは、当時としてはたいへんな冒険であった。WE社やRCAなどで実用化されたトランジスタは大半が低周波用のものだった。ラジオ向けの高周波トランジスタ(グローン型)ができるのは、まだ先のことといわれていた。にもかかわらず、井深はあえてラジオに挑戦することを決めた。創業以来のポリシーである「よそにないものをつくる」という夢を実現するためであった。
さっそく技術部長の岩間和夫をリーダーとするトランジスタ開発チームが編成された。メンバーは、岩田三郎(東大理学部物理科卒)、天谷昭夫、茜部資躬(阪大工学部機械工学科、元愛知航空機技師)などで、ちょっと遅れて塚本哲男、安田順一が加わった。そして盛田がもち帰った「トランジスタ・テクノロジー」をテキストに猛勉強をはじめた。
しかし、この仕事をすすめるには、通産省から外貨割当ての承認をもらわなければならない。そこで井深自身が通産省に陳情に出向いた。そして「当社はWE社とトランジスタのライセンシー契約を結びました。ついては特許料を払いたいので外貨割当てを受けられるよう便宜をはかっていただきたい」と申し入れた。これを聞いた電気通信機械課の担当官は、「通産省の認可も受けず勝手に契約書にサインしてくるとは、もってのほかだ」と、つむじを曲げてしまった。バルコム貿易の件があっただけにことさら拒絶反応を強めたのだ。
井深はその後、人を介し、何度も通産当局にアプローチを試みたが、担当官は取り合おうとしなかった。だが、天運は井深を見放さなかった。二十八年秋の終わり頃、通産内部で汚職事件が発覚し、電気通信機械課のスタッフが全部入れ替ることになった。これが東通工に幸いし、急転直下、外貨割当て承認がおりる見通しがついたのである。
二十九年二月、東通工が申請した外貨割当て申請は外貨審議会で正式に認可された。それを機会に、井深は岩間を伴ってふたたび渡米、WE社と正式に契約を交した。そのあとアレンタウンの工場に案内された。井深がWE社の技術者に「トランジスタをつくって何に使うつもりだ」と聞かれ、「ラジオに使う」と答えたら、「それだけはやめておけ」と忠告されたのはそのときであった。「何しろ、向こうでもトランジスタの生産をはじめて三年目なのに、歩留りが悪くて困っていた。電子交換機に使っているというので見せてもらったら、たった一本しか使っていない。それも試験的に使っているだけなんです。こんな調子だから、民生用といっても、せいぜい補聴器にしか使えないというのが向こうの言い分だったように覚えています」(井深大)
WE社と契約調印を終えた井深は、工場見学のために逗留する岩間と別れ、空路日本に戻った。残った岩間は、現地に三ヵ月ほど滞在し、毎日のようにアレンタウンのトランジスタ工場に通った。使われている製造装置を見るためだ。その過程でわからないことがあれば馴れない英語でしつこく聞く。そして夜、ホテルに戻ると記憶を呼び戻し、製造装置をスケッチし、それを報告書にまとめ東京宛に送るわけだ。
「なぜそんなことをしたかといいますとね。うちとWE社の契約は特許実施権だけで、他社のようにノウハウ契約じゃなかった。したがって、装置の仕様書とか、そういうたぐいのものはいっさいない。そこで見聞した情報をどんどん送ったんです。報告書は一回に、普通の便箋に小さな字でびっしり書いたものが五〜一〇枚、それを二日か三日おきに出していたんだから、われながらよく頑張ったものだと思います」(岩間和夫)
これがきっかけで、その後アレンタウンに出張する社員は、必ず詳細な報告書を旅先から送ることが義務づけられたというから罪つくりな話であった。
定期便のように送られてくる岩間のレポートで悪戦苦闘を強いられたのは、東京の開発部隊である。唯一の教科書である「トランジスタ・テクノロジー」には、製造装置の写真や図面はいっさい載っていない。とすれば、頼りは岩間のスケッチだけ。それをみんなで検討し、ともかく設計図をつくり、試作してみる。そういう仕事は機械づくりのベテラン茜部が担当した。
とはいえ、東通工の機械場にあるのは、小型の旋盤が二台、ボール盤一台、フライス盤一台程度でしかない。これだけの設備でものをつくるのはしょせんムリな話。そこで社外の下請け工場に依頼、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、その純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライングマシン)など、一連の装置をつくりあげることができた。
スライングマシンには、ダイヤモンド砥石と精密高速回転する砥石軸が必要だった。ところが、当時、こうした特殊な機械をつくってくれるメーカーはどこにもなかった。そこで盛田はダイヤモンド砥石だけはアメリカから調達してくれた。あとの機械本体は茜部が東京・古川橋の中古の工作機械屋に雨ざらしになっていた赤錆びだらけのスライス盤を見つけ、これを改造整備してやっとの思いでつくりあげたものだった。