一通り装置が揃うと、物理屋の岩田、塚本、化学屋の天谷が中心になってゲルマニウムの結晶づくりに取り組んだ。特性の測定は安田が受け持った。岩間が帰国する一週間前の四月には点接触型トランジスタ(国内五番目)、五月にはアロイ型トランジスタ(同二番目)の試作に成功する。開発陣はその余勢を駆って、七月には二つのタイプのトランジスタを使ってラジオをつくっている。もっとも、井深にいわせると、「とても商売になるようなシロモノでなかった」そうだが、結晶づくりから製品試作までのペースは驚くべき速さだったといえる。
ところで、ベル研究所のショックレー博士が発明した接合型トランジスタにはアロイ型とグローン型の二つのタイプがあった。このうちRCAで改良、工業化されたアロイ型トランジスタはつくりやすいが、ラジオ向きの高周波特性をもつものは当時、まだできていなかった。一方のグローン型は高周波特性はよいが歩留りが悪い。これはエミッタとコレクタにはさまれるベースのつくり方に難点があったためだ。
当時、補聴器などに使われていたトランジスタのベースは〇・三ミリ程度の厚さだが、ラジオ用になると〇・〇五〜〇・〇三ミリという超微薄でないと使いものにならない。これをつくるのが容易でなかったのだ。そのせいか、このあとトランジスタ製造に参入した日本の大多数のメーカーはRCAで生まれたアロイ型を採用している。これに対し、東通工は、誰も見向きもしなかったグローン型に目をつけた。理由はただ一つ。グローン型のほうが高周波特性がよく、ラジオ向きだったからである。
これは東通工技術陣にとって大きな賭けであった。テープコーダであてたとはいえ、会社ができて六年目、資本金五〇〇〇万円になったばかりの小規模企業である。にもかかわらず、海のものとも山のものともわからないトランジスタの実用化に手を出した。まさに会社の運命を左右する勝負であった。
本格的な試作に取り組むと、それがいかにたいへんであるかがわかってきた。一キログラム二〇〇〇円近くする高価なゲルマニウムを使い、テキスト通り、何回試作に挑戦しても、条件を充たすものは一つもできない。その辺の苦しさを井深は次のように振り返る。
「試作に着手して六ヵ月ほどたった頃でしたが、すでに設備投資を含めて、一億円ぐらい注ぎ込んでいたでしょうね。銀行にはラジオのことは一言もいわず、テープコーダが売れてますからといって金を借りたが、あの頃がいちばん苦しかったですね」
しかも、ラジオをものにするまで、あとどのくらい資金が必要なのか、井深にも皆目見当がつかない。そんな東通工の実情に不安を感じたメインバンクの三井銀行は、資金の貸出しを渋るようになった。そこで井深は、自ら銀行に出向き、トランジスタの原理とその可能性を三時間にわたって説明、審査部の担当者を納得させるなど、いうにいわれない苦労をしている。
井深が夜もろくに眠れないと人知れず悩んだのはその頃のことであった。だが、心の悩みをけっして表情に出さなかった。それどころか、逆に陽気に振舞うことが多かった。
「苦しいときの自分の役割は、私なりに心得ているつもりです。何かに行き詰まったり困ったことがおきると、違った角度から攻めちゃどうかとか、某君は分野が違うから新しい見方ができるかもしれない、アレを呼んで来いとか、それを現場や会議の席でやるわけ。そんなことをワァワァやっているのを、ハタで見ると、陽気に見えるんじゃないですかね」
と、井深は自分なりに分析する。そういう場面の井深は、経営者でなく、技術の表も裏も知りつくしたプロジェクト・マネジャーとして、メンバーと苦楽をともにしようと努力する。それがいまでも社員に慕われるゆえんである。
やっとトランジスタの歩留りが五パーセントになったとき、井深はラジオ生産の指令を下した。このときは、周りのものが驚いた。その無謀さにである。
とりわけ岩間をリーダーとする開発陣は〈時機尚早〉と反対した。歩留り五パーセントで生産開始すれば、墓穴を掘ることになりかねないと心配したのである。井深の親友で、NHK在職中の島も「トランジスタのような高価なものを使って、民生用の機器をつくるなんて無茶だ」と忠告したほどだった。だが、井深は自説を曲げなかった。その理由を次のように強調した。
「歩留りが悪いってことは、僕にいわせれば非常にいいことなんだよ。一個でもつくれたら、あとは努力すればよくなる可能性があるということなんだから……。それに、歩留り五パーセントは商業ベースにのるギリギリの線だと、ぼくは思う。歩留りは必ずよくなる。かりに歩留りが五〇パーセントになれば値段は一〇分の一になる。そうすれば大幅なコストダウンもできるし、大きな利潤が得られるんじゃないかな」
いわれてみれば確かに理にかなっている。そうなると誰も反対できなくなった。こうして東通工は、井深の判断にしたがってトランジスタラジオの生産に踏みきったのである。
おそらく、これが並の経営者だったら、とてもこんな無謀な決断は下せなかったに違いない。失敗が怖いからだ。オーナー経営者の井深にはそれがない。
その井深は決断という言葉を嫌う。まず目標設定をやり、それをどう詰めていけばよいかを考えれば自ら問題解決の時期に到達する。それが井深の持論であった。
それに井深は創業以来、開発担当者と苦労をともにしてきただけに、部下の気心もよく知っている。彼等のもつ潜在能力も評価できる。あとはその能力とやる気をどうやって引き出すか、そのタイミングさえ誤らなければトランジスタラジオは必ずものにすることができると、井深は自分なりに緻密な計算を立てていた。その格好な動機付けが歩留り五パーセントだったというのである。