この前後、東通工はふたたび外部の人材を積極的にスカウトしている。吉田進(昭和二十年東北大工学部電気工学科、西川電波を経て二十八年入社。副社長、アイワ会長)、森園正彦(同二十四年東大第二工学部電気工学科、西川電波を経て二十八年入社。のち副社長、相談役)、高崎晃昇(同十二年北大理学部物理科、東北大助教授、金属材料研究所を経て二十八年入社。のち常務、顧問)、江崎玲於奈(同二十四年、京大理学部物理科、神戸工業、オリジン電気を経て三十年入社。筑波大学学長)、植村三良(同十四年東北大工学部電気工学科、助教授、鉄道技研を経て三十年入社。のち研究部長、マコメ研究所長)、鹿井信彦(同二十八年東北大工学部電気通信科、日本無線を経て三十年入社。副社長)などで、いずれも井深の人柄や東通工の仕事に魅力を感じ参画した人ばかり。
たとえば、吉田と森園のいた西川電波はピックアップやカートリッジなどをつくっていた音響機器メーカーである。そこへ、当時、芸大の学生だった大賀が顔を出すようになった。そのうち二人が大のオーディオマニアだったと知った大賀は、強引に東通工入りをすすめた。それが機縁で二人揃って東通工入りしたもの。
高崎の場合は、東通工が資金援助をしていた東北大科学計測研究所の岡村俊彦教授の義弟にあたる人。その岡村が、昭和二十八年、新しく開発したフェライトの特許契約の代理人をまかされたことが、井深、盛田との出会いにつながるのである。そのいきさつは、拙著『日本の磁気記録開発』(昭和五十九年一月、ダイヤモンド社発行)にくわしく述べているので省略するが、この頃、東通工は、テープコーダの市場拡大とトランジスタラジオへの挑戦という大きな課題を抱え、人手不足で悩んでいた。それだけに、これはと思う人材を見つけると、積極的にはたらきかけ、責任のある仕事をまかせるように仕向けた。外部の新しい血を導入し組織の活性化をはかろうという、井深ならではの経営戦略であった。
新しく東通工の禄を食むようになった人びとは、一ヵ月もすると生え抜きの社員と見分けがつかなくなる。うまく職場の雰囲気に溶け込み、のびのび仕事をやるようになる。高崎がその典型的なケースである。
井深、盛田のたっての要請で、仙台工場の建設とフェライトづくりをまかされた高崎は、井深、盛田の〈けれん味〉のない性格にいっぺんで惚れ込んでしまった。もともと高崎は、東京生まれの東京育ち。高等学校はPCLの近くにあった成城学園高等部(ちなみに、テープコーダの普及活動に奔走していた倉橋は、成城学園高等部時代に一年後輩だった)、仙台では、東北金属の研究課長と大学講師の二足のわらじをはいた経験もある。そんな経歴のせいか東通工入りした高崎は水を得た魚のように働き出し、仙台工場が稼働しはじめた頃にはリーダーの一人になりきっていた。これが井深、盛田の適材適所の人材活用法であった。
〈金食い虫〉といわれたトランジスタの歩留りが少しずつ向上し、トランジスタラジオの試作が可能になったのは二十九年秋頃である。そして一〇月はじめには、日本最初のトランジスタ、ゲルマニウム単結晶の披露会を東京・丸ノ内の東京会館で開いた。さらに一〇月末には、東京の三越本店でトランジスタとその応用製品の展示即売会を開き注目された。このとき出品したのは、ゲルマニウム時計、試作第一号のゲルマニウムラジオ、補聴器などであった。接合型トランジスタは四〇〇〇円、ダイオードは三二〇円という価格をつけて展示した。当日、そのトランジスタを買っていく人が何人かいた。これには井深も「いったい、何に使うつもりなのか」と驚いたそうである。
そんな矢先、東通工開発陣をガッカリさせる情報がアメリカから届いた。「世界初のトランジスタラジオ発売」というニュースが飛び込んできたことだ。二十九年一二月中旬のことであった。発売したのは、アメリカの電機メーカー、リージェンシー社で、テキサスインスツルメンツ社から規格はずれのトランジスタを買い、特性のいいものを選んで組み立てたものとわかった。すべて独自技術でつくろうと努力している東通工のラジオとは、本質的に違う。だが井深は「世界初をめざしていたわれわれのショックは大きかった」と述懐するほどくやしがった。
しかし、結果的にはそれでよかった。アメリカのラジオを上回るものをつくり、一矢を報いようという気が開発メンバーの間に満ちたからだ。そのため井深自身も足を棒にして、小型部品をつくるメーカーを探し歩いた。そして、ポリバリコンのミツミ電機(調布市・森部一社長)とスピーカーのフォスター電機(昭島市・篠原弘明社長)を見出した。
「ミツミの名前は雑誌の広告で知ったんだが、場所を探すのに一苦労した。しもた屋風の工場だし、いくら歩いてもわからない。二度目にやっと大岡山の工場を探し出したんです。フォスターじゃおこられてね。ああいうところは職人が多い。小さなスピーカーがほしいといったら、スピーカーは大きければ大きいほどいい音が出るんだと、頭ごなしにどなられたものです」
その苦労が実り、接合型トランジスタを使ったスーパーラジオ〈TR‐52型〉の試作に成功する。昭和三十年一月のことである。これを契機に東通工は、製品のすべてに「SONY」の商標を入れることを正式に決めた。これは井深、盛田が考えに考え抜いて選んだブランド名であった。
「われわれは生まれたばかりの小さな企業だが、将来への可能性を秘めた夢のある会社」ということを強調したかったのである。