話は変わるが、少年時代、「SONNY」の愛称で両親や近所の人に可愛がられたテキサス生まれの風雲児ハワード・ヒューズのその後の消息に触れておきたい。
当時、ハワード・ヒューズは五〇歳、事業家としてもっとも脂の乗った年代だったはず。事実、父親の遺産ともいうべきヒューズ工作機械をはじめ、ヒューズ航空機、RKOラジオ映画、RKOシアターズ、トランス・ワールド航空の各社を傘下におさめた〈ヒューズ帝国〉の独裁者として君臨していた。しかし、ヒューズ自身の言動には、かつてのような覇気はどこにも見出せなかった。若い情熱を燃やして取り組んできた映画づくりと、未開拓の空の征服から身を引いてしまったことが、それを裏書きしている。そのせいか、エレクトロニクス部門の好況で気を吐くヒューズ航空機以外の企業は、いずれも膨大な赤字を抱え気息奄々の状態だった。「ヒューズは自らの手で帝国の清算をもくろんでいる」と一部マスコミが報じたのもそのためであった。
テキサス生まれの〈SONNY BOY〉に代わって日本の〈SONY BOY〉が、エレクトロニクス大国のアメリカを舞台に一大旋風を巻き起こすことになろうとは、当時、誰一人予測したものはいなかった。
その先兵の役割を果たすのが盛田昭夫であった。三十年二月、盛田は自社製品売込みのため単身渡米した。二ヵ月の予定だった。手にした鞄のなかにはできたばかりの国産初のトランジスタラジオ〈TR‐52型〉のサンプルが何台か入っていた。
最初のセールス活動だけに多少は苦労したが、それでも、マイクロフォン一〇〇〇個と放送用テープコーダ(デンスケ)一〇台の売込みに成功した。だがもう一つの目玉商品であるトランジスタラジオの商談は、いっこうにはかどらなかった。二九・五ドルという価格もさることながら、どこへ行っても「そんな小さなラジオは、アメリカ人は見向きもしない」というのである。しかし、盛田はそれにもめげず、小さなラジオのメリットを根気よく説きながら販路を探し回った。
時計で有名なブローバ社から「その値段で一〇万台注文してもよい」という引き合いが入ったのはその直後であった。これには盛田も肝をつぶした。いまの東通工の生産能力の数倍に匹敵する量だからである。ところが、それにはやっかいな条件がついていた。ブローバ社のブランドをつけるということだった。ブローバ社の仕入れ部長が漏らした「SONYの商標なんて誰も知らない。その点、うちのブランドは広く知れ渡っているから売りやすい」という言葉に盛田は反発を感じた。
会社は小さくとも、自分たちの仕事に誇りをもっている盛田は「これは断わるべきだ」と思った。しかし、自分の一存で決めるわけにはいかない。そこでホテルに帰ると、すぐ日本に電報を打った。
「一〇万台の注文を受けた。しかし、彼等のブランドをつけるという条件がついている。したがって、断わるつもりだ」
折り返し井深から返電が届いた。「一〇万台はもったいない。商標などどうでもいいから注文に応じろ」というものだった。これには盛田もガッカリした。いつもの井深に似合わず弱気になっていたからだ。そこでもう一度、「断わりたい」と電報を打った。ところが、本社では結論が出ないとみえ、なかなか返事がこない。待ちきれなくなった盛田は、本社に電話をかけた。
「井深さん、僕は向こうの商標をつけるべきでないと思う。そのためにわれわれはSONYというネーミングを考えたはず。だからこのままでいこうじゃないですか。それに、かりに、一〇万台の注文をもらったって、いまのうちじゃこなすことができませんよ」
この一言が井深を飜意させる決め手になった。翌日、盛田はブローバ社に出向き、自分たちの意向を伝えた。はじめ冗談かと思っていたブローバ社の社員は、それが盛田の本心だと知り一瞬、あきれた顔をした。だがすぐ気を取り直し、あざ笑うようにいった。
「わが社は五〇年続いてきた有名な会社ですよ。これに対してあなたの会社のブランドなんて、アメリカでは誰も知りゃしない。うちのブランドを利用したほうがトクに決まっている。それが商売と違いますか」
もちろん、盛田も負けずにいい返した。「五〇年前、あなたの会社のブランドは、世間に知られていなかったでしょう。いまわが社は、新製品とともに五〇年後に向けて第一歩を踏み出そうとしているところです。たぶん、五〇年後にはあなたの会社に負けないぐらい、SONYのブランドを有名にしてみせますよ」
井深も鼻っ柱の強いことでは有名だが、盛田の負けん気は、それに劣らなかった。子供の頃から盛田家の後継者としてきびしくしつけられた経営者の意地と誇りがそうさせたのである。一見、思い上がりに見えた盛田の強引な商法も、結果から見たら決して間違いでなかった。東通工の首脳陣がそれを身をもって知ったのは、盛田が帰国した直後の三十一年五月のことであった。
五月といえば、初夏である。日差しも強くなれば、気温も上がる。行楽にはまたとない季節の到来というわけだ。巷では輸出好調を反映して消費ブームが起きていた。評論家やマスコミは、それを〈神武景気〉と呼んだ。東通工もその機運に乗じ、トランジスタラジオの国内販売に踏みきる決意を固め、TR‐52型の生産を開始した。そんな矢先、現場から思いがけない報告がもたらされた。キャビネット前面に取り付けてある白いプラスチックの格子に異常が発生したという内容だった。
生産中のTR‐52型はその外観から「国連ビル」という愛称で呼ばれていた。異常が起きたという白い格子状のプラスチックの形状が、国連ビルによく似ていたためである。
その白いプラスチックの部分が枠から次第に浮き上がり、ひどいものはそっくり返っている。それも一台や二台でなく、これまで生産した百数十台のうち、半数近くが同じような現象を起こしていた。これには井深も顔色を変えた。もちろん、生産は全面的に中止。入念な原因調査をはじめた。その結果、プラスチックの材質そのものに問題があったことが判明した。
開発商品第一号になるはずだったTR‐52型は、その年の五月、東京・晴海の国際見本市に出品されただけで市販は見送られた。幻の一号機になったわけだ。この事件で東通工は逆に救われたのである。盛田が渡米したとき、ブローバ社の言い分をのんで受注していたら、アメリカ市場で大きなクレームが発生し、東通工は大打撃を受けていたはず。それを未然に防げたのも盛田の強気な商法のおかげであった。