岩間を中心とする技術陣は、急遽、TR‐52型に代わる新型ラジオの試作に着手した。新型ラジオはデザインを一新しただけでなく、新しい機能を付加し、不安定なトランジスタをカバーしたことが特長であった。ユニアンプ(万能低周波増幅器)、プリント配線などがそれである。
当時のトランジスタは歩留りが悪いうえ、特性にバラつきが多いのが悩みのタネだった。大量のトランジスタのなかから良品を一つひとつ選別していたのでは、ラジオの商品化は計画通りすすまない。そこで電気担当の安田は局部発振用コイルを一二種類つくり、できあがったトランジスタと相性のよいコイルを組み合わせ、強引に発振させてしまおうと考えた。こうしてつくったのがユニアンプだった。
プリント配線は、すでにアメリカなどの先進国で実用化されていたが、日本では電解技術の立ち遅れや材料の入手がむずかしかったせいか、手がけているメーカーはどこにもなかった。それにあえて挑戦したのは、東通工に入って日の浅い佐田友彦(昭和二十四年東京物理学校化学科、二十九年入社)である。
佐田は、井深同様、富士見町教会の信者であった。しかも、父親が井深の義父前田多門と立教中学で一緒だった。その縁で東通工に入り、岩間のもとでトランジスタ製造用の化学薬品の調合などを担当していた。二十九年暮れ、プリント配線の自社開発の機運が持ち上がり、佐田がその仕事をまかされることになった。入社前、製紙会社で合成樹脂処理をした「濡れない紙」の開発を手がけた実績がかわれたのだ。その佐田はプリント配線開発の経過を次のように語る。
「最初、印刷屋にもぐり込んで、製版技術とシルクスクリーンの印刷技術を勉強させてもらいました。そのうえで何種類もの接着剤を買ってきて何度も試作してみたが、なかなかうまくいかない。基盤になる電解銅箔はよくないし、高品質の接着剤もなかったためです。日立の化成部(現日立化成)、江戸川化学(現三菱ガス化学)が熱心に売込みに来られたので、銅箔を試作してもらい使ってみたが、そっくり返ったり、割れたりで、全然使いものにならない。あれにはホトホト手をやきました」
そこで製品売込みのため渡米した盛田が、有名なラバ&アスベスト社を訪ね、接着剤付きの電解銅箔の輸入商談をまとめてきた。これでどうにかプリント配線基盤の自社生産が可能になったのである。
こうしてつくりあげたのが、五石のトランジスタを使った本格的なトランジスタラジオ〈TR‐55型〉(単三電池四本使用、価格一万八九〇〇円)で、発売は三十年八月初旬であった。それに先立ち七月下旬、東京・八重洲口の国際観光会館で発表会が行なわれた。この日、会場には一般客に交じって大手電機メーカーの関係者や、当時、花形だった真空管式ポータブルラジオのメーカー白砂電機(愛知県名古屋市)の首脳なども顔を見せていた。
「私も説明員としてあの発表会に出ていたが、正直いって不安でした。真空管式ポータブルラジオと比べると、どうしても音質が悪い。トランジスタの性能はこんなものか、たいしたことないじゃないかといわんばかりの顔をして帰った方が非常に多かったように記憶しています」
これは開発チームの一員だった塚本哲男の話だが、当時のトランジスタの開発の状況からすればやむを得なかったといえよう。
その頃はまだ真空管ラジオの全盛時代。世界での普及率は七四パーセントに達していた。一部の業者や専門家のなかには「いまになって新型ラジオをつくっても売れないのでは……」と、批判的な見方をする人も出てきた。にもかかわらず、東通工があえて発売に踏みきったのも、それなりの確信があったからだ。井深はその根拠を次のように強調する。
「七四パーセントという数字は家庭単位の普及率。個人向けの商品を開発すれば、マーケットは必ず拡がる。それにトランジスタの歩留りが向上すれば、製品の質もよくなるし、値段を安くすることも可能です。それを実現するために、われわれの力で市場をつくり、育てていく努力をしなければいけない。問題解決のカギはそれにつきます」
そのための布石として、それまでテープコーダの販売を担当していた「丸泉」の社名を「東通工商事」と改め、東京、大阪にそれぞれ支店を設けることにした。そして東京支店長に倉橋、大阪支店長には地元出身で土地カンがあり、著名財界人に顔の利く児玉を据え、本格的な営業活動を開始した。
とはいえ、そう簡単にものは売れない。東通工の知名度が低いうえ、トランジスタがどんなものか、消費者は全然知らないからである。
「実は、当時、阪急の社長をやっておられた清水雅(のち東宝社長)さんを、大学時代から存じ上げていた。その清水さんに頼んで阪急デパートのフロアの片隅を借り、トランジスタラジオの初売りをやったんです。そのとき、最初どんな人が買うか見ていたら、なんとゴムの合羽とズボンをはいたおっさんが、胴巻からよれよれの札束を取り出し、ポンと買っていった。あれにはびっくりしましたね。念のために職業を聞いたら、岸和田の漁船の船主だった。それでトランジスタラジオを買った理由がわかったんです」(児玉武敏)
出漁のとき乗組員がいちばん頼りにするのはラジオの気象通報である。板子一枚下は地獄といわれるように、逃げ場のない海洋での操業は常に危険が伴う。とくに操業海域の気象条件を事前に把握していないと不測の事故を招く恐れがある。つまり、ラジオは彼等にとって必需品というわけだ。当時、漁業関係者の間で真空管式のポータブルラジオがよく売れたのもそのためだった。ところが、ラジオは塩気に弱く、真空管が切れやすい。おまけに値段のはる積層電池の消耗が激しいという欠点があった。
その点、トランジスタラジオは、真空管式と違い寿命は半永久的だし、電池も安上がりですむ。それが購買動機につながったものとわかった。こういう末端からの情報は、井深たちをどれだけ勇気づけてくれたかわからない。自分らの考えていた個人市場の開拓が間違っていなかった証になるからである。
最初、売れ足の鈍さに一抹の不安を感じていた開発陣も気を取り直し、新しい機種の開発に総力をあげた。その成果が九月に発表したイヤフォン式の小型ラジオTR‐2K(二石)、一〇月に発表したイヤフォン式スーパーラジオTR‐33などであった。そして一二月にはハンディタイプの七石トランジスタラジオTR‐72型(二万三八〇〇円)が発表された。トランジスタラジオの存在が社会的に認知され、評判になりはじめたのはその前後からであった。