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創造の人生38

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:本格的輸出第一号(1)無造作に使え、いつも機嫌よく鳴る(2)ダイヤルをパッと合わせられ、気取らない(3)電池の交換は一年に一〜二
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 本格的輸出第一号
 
(1)無造作に使え、いつも機嫌よく鳴る
(2)ダイヤルをパッと合わせられ、気取らない
(3)電池の交換は一年に一〜二回でよい
(4)音にくせがなく、いつまでもよく鳴る
 これは『暮しの手帖』に載った花森安治のTR‐72型評である。技術陣が音質、感度、電池寿命に重点をおいて設計したのが功を奏したのだ。以来、TR‐72型は東通工はじまって以来のヒット商品になった。
 これに気をよくした東通工は、72型の中身と同じ機構を大型キャビネットにおさめた据置型ラジオTR‐73型を発売する。三十一年二月であった。このラジオは〈停電でも安心して聴ける〉というキャッチフレーズがものをいい、「台風銀座」といわれる九州地方で飛ぶように売れた。このため四月にはラジオ組立て工場を増設しなければ需要を捌ききれなくなった。創業一〇周年を迎えた五月には、ポータブルタイプの薄型ラジオTR‐6型(一万七五〇〇円)を発売した。これがアメリカの大衆科学雑誌『ポピュラーサイエンス』の表紙を飾っただけでなく、性能を紹介した記事も掲載され、内外で評判になった。
 好調な市場動向に気をよくした井深は、トランジスタの外販を思い立った。真空管に代わるトランジスタのメリットを多くの人に知らせるには、同業各社にも使ってもらうように仕向けたほうが賢明と考えたのだ。そこで松下電器、三洋電機、早川電機、東芝、日本ビクター、スタンダードなど、代表的なラジオメーカーの技術者を招き、外販の意志のあることを告げた。
 一方、大阪支店の児玉は、親しい間柄である早川電機の早川徳次社長に仲介の労をとってもらい、松下電器の松下幸之助、三洋電機の井植歳男を大阪の料亭「なだ万」に招待した。東通工側から井深、盛田、笠原、児玉が出席、接待にあたった。その席で井深は、トランジスタとラジオを見せ「私どもでこんなものをつくりました。よろしかったらぜひお使いください」と、挨拶した。
 松下、井植、早川の三首脳もたいへんな関心を示し、開発に至るまでの苦心談を熱心に聞いてくれた。この会合の相乗効果は予想以上に大きかった。それは、三洋電機の井植社長が、開発中のプラスチックケースに入ったスーパーラジオの生産を中止させ、トランジスタラジオの研究を指示したことでもわかる。
 その直後、東通工はトランジスタの量産に踏みきった。そのためには人手がいる。そこで岩間は総務担当の太刀川正三郎に「これからトランジスタの製造を女子の二交替制でやりたい。その手配と、受入れ対策を大至急検討してほしい」と指示した。その頃東通工のトランジスタ生産量は、アロイ型、グローン型を合わせて月産三〇万個にはね上がっていた。この数字は世界のトランジスタメーカーのなかでも五本の指に入る実績である。それを一年後の三十二年後半には八〇万個体制にしたいというのが岩間の狙いであった。〈トランジスタ娘〉といわれたコンパニオンの募集キャラバンはそれからはじまった。
 東通工の強気なトランジスタ攻勢は、同業他社の危機感をあおる形になった。それまで日本の大多数の電機メーカーは、トランジスタそのものに懐疑的な目を向けていた。性能に一抹の不安を抱いていたこともあったが、実際は、経営トップ陣が投資負担の増大に難色を示したからである。
 当時、大手各社は高級ラジオや電蓄用などの大規模な真空管工場を競って建設、本格的な量産を開始したばかり。それだけに、ここで新しい分野に手を出せばこれまでの投資がムダになってしまう。ある大手メーカーのトップなどは「真空管があるのに、なんでトランジスタを手がけなければならんのだ」と、その必要性を訴える研究者の言に耳をかそうとしなかった。そんな経緯があっただけに、各社の研究者は、無名の東通工に出し抜かれたことを知り、地団太踏んでくやしがっていた。東通工の成功を目のあたりにして、大手メーカーの首脳たちも静観していられなくなった。
 こうして神戸工業(のち富士通に吸収合併)、東芝、日立、日本電気、松下電子工業、富士通信機(現富士通)が相次いでトランジスタ参入を決めた。オランダのフィリップス社と手を組んだ松下を除いた各社は、いずれも、WE社とトランジスタの技術援助契約を結び、RCA社の技術を導入、専用工場を建て、いっせいにアロイ型トランジスタの量産に乗り出した。三十年から三十四年にかけてであった。
 そんな各社の動きを尻目に東通工は、着実に独走体制を固めていた。トランジスタの量産も一応順調にすすみ、開発したラジオも七機種と、完全に主導権を握る勢いを見せた。それを決定的なものにしたのは、三十二年三月に発表した世界最小のスピーカー付ポケットラジオ「TR‐63型」(六石使用、一万三八〇〇円)である。このラジオは感度が優れていただけでなく、消費電力もこれまでのラジオの半分以下という点が人気を呼び、たちまちヒット商品の一つに数えられるようになった。
 またこのラジオは、日本の本格的輸出の第一号の大任を果たした。輸出価格は三九・五ドルと手頃だったせいかアメリカ市場でも飛ぶように売れた。とくに年の瀬が近づいた一一月下旬には日航機をチャーターし、品不足のアメリカに大量輸出するほどであった。当時の朝日新聞は次のように報じている。
「欧米各国はクリスマスシーズンに入り、各国がプレゼント商品を探し求めているが、これからの需要期に間に合わないので、日本航空の特別貨物便がソニーブランドのTR‐63型を積んで輸出した。東通工はこれまで二万台のトランジスタラジオを輸出しているが、海外でのトランジスタラジオの評判は高い」
 この輸出は、この年の八月、盛田が三度目の渡米をしたとき、アメリカ、カナダに強力な販売網をもつ電気機器販売会社「アグロッド社」と長期取扱い契約を結んだことがものをいったのである。
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