東通工が社名を「ソニー株式会社」と変えたのは三十三年一月である。これは製品に「SONY」ブランドを冠したときからの懸案であった。三年も経過するとSONYブランドも広く内外に知れわたっている。それだけに、この際、呼称を統一したほうが何かにつけて便利だし、相乗効果も大きいと盛田は考えたのだ。
とはいえ、新社名がすんなり決まったわけではない。一〇年あまりも親しんできた「東通工」に愛着もある。「ソニー」だけではなんとなく重味が感じられないから「電子工業」とか「電気」の文字をつけるべきだと主張する幹部もあった。だが発案者である盛田は頑としてきかない。理由はただ一つ「世界に伸びるため」というのである。その背景には、井深の創業の理念を活かしたいという大きな願望が隠されていた。これまで東通工は、テープコーダ、トランジスタ、トランジスタラジオと、次々に違ったものをつくってきた。この前向きな姿勢は今後も変えずに続けなければならない。その場合、対象を電気製品に限定せず、消費者に喜ばれるものならなんでも手がけたい。そういう可能性を秘めた会社にするためにも、「電気」という文字をつけるのはなんとしても避けたい。それが盛田の狙いであった。
会長の万代順之助も、井深も、この考え方に双手を上げて賛成した。だが、メインバンクの三井銀行は「せっかく一〇年以上も売った『東通工』の名前を、そんなわけのわからんものに変えるとは」と、さんざん文句をいったそうである。
新しい社名が社内外にすっかり定着した三十三年七月、井深は北極回りの航空路で二ヵ月ほどヨーロッパを旅する機会に恵まれた。これまでの輸出実績の褒賞として、政府から特別に割り当てられた外貨を使い、ヨーロッパの電子業界の実情や技術動向を調べて来ようと思ったのである。
旅行鞄のなかには、世界の人気商品になったTR‐63型が六台おさまっていた。最初の給油地、ストックホルムで一夜を過ごした井深は、ラジオを取り出しスイッチを入れたが、なぜかウンともスンともいわない。あわてて別のラジオを取り出したがこれも鳴らない。他のラジオも同様だった。一瞬、井深は青くなった。「北極を通ると、トランジスタはダメになるのか」と思ったのだ。そのとき、ルームサービスのボーイが朝食を運んで来た。そこで「この時間(朝の八時頃)に放送をやってないのか」と聞いてみた。ボーイは「ここじゃラジオは昼からですよ」と答えた。その返事を聞いて井深はホッと胸をなでおろした。
ところが、その北欧では、TR‐63型の評価はあまりよくない。おもちゃ程度にしか見てくれないのだ。これには井深もしらける思いがした。だが、その失望感も大賀に会ったことでいっぺんに吹っ飛んでしまった。
昭和二十八年、東京芸大を卒業した大賀は、井深のたっての要請で東通工の嘱託になった。しかし、すぐ西ドイツに旅立った。ミュンヘンの音楽学校に留学するためであった。その大賀は自身の立場を次のように語る。
「留学のため、ほとんど会社に出なかった。その代わりドイツに来てから、こちらのオーディオ事情とか、エレクトロニクス関係の最新情報をレポートにしてどんどん送った。テープレコーダの発祥はドイツですからね。トランジスタラジオ、あれは私が日本を出るときはまだできていなかった。送ってもらったのは、たしか三十年の夏ぐらいじゃないかな。そのラジオのPRもぼくなりにずいぶんやったんですよ。井深さんがヨーロッパに来られたのは、それからしばらくたってからのこと。当時、ぼくはベルリンの高等音楽学校に移っていた。たまたま学校も夏季休暇に入っていたので、ぼくの車で西ドイツ、ベルギー、オランダなどを案内して回った。何がしかの報酬をもらっていたんだから、その程度のお手伝いをしなきゃいけませんよね」
井深が大賀を通訳兼ガイドとしてオランダのフィリップス社をはじめて訪ねたのも、このときであった。またヨーロッパの主だった都市の電気店の店頭にソニーのラジオやテープが並んでいるのを見て気をよくするなど、快適な旅を続けることができた。
その頃、東京でちょっとした事件が起こり、大騒ぎしていた。三十二年秋、『週刊朝日』の連載記事「日本の企業」で「神武景気も過ぎ去った今日、特配を含めて六割も配当し、利益保留が資本金の七割五分もあるという会社は、日本中探してもそうあるものではない」と、手放しでソニーを激賞した評論家の大宅壮一が、一〇ヵ月後の同じ欄で、ソニーをモルモット呼ばわりしたからである。問題の記事は、三十三年八月一七日号に載った〈東芝編〉のなかにあった。そこで東芝のトランジスタ工場の話に触れ、次のように書いた。
「トランジスタでは、ソニーがトップであったが、現在ではここでも東芝がトップにたち、生産高はソニーの二倍近くに達している。つまり、もうかるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強味があるわけで、何のことはない、ソニーは東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」
大宅は鋭い観察力と辛口の評論で多彩な活動を続ける売れっ子であった。その毒舌と誇張した文章がマスコミ受けするのだ。だが科学技術についての専門知識はまるでない。またその必要もなかった。要は自分の感じたことを自分の文体で書くだけでいいのだ。規模の小さいソニーを実験動物のモルモットに見立てた。そしてこの会社は、いたずらに先駆者としての犠牲を払うだけで、本当の〈成果〉は、東芝のような大企業にとられてしまうに違いないと皮肉ったのだ。
テープコーダ、トランジスタの実用化という誰もなし得なかった事業をものにし、意気のあがるソニーの技術陣が怒るのは当然であった。誇りを傷つけられる思いがしたからである。
血の気の多い若手技術者のなかには「週刊朝日と大宅に抗議すべきだ」といきまくものもいた。だが留守を預かる盛田はその愚をあえて避けた。マスコミの寵児と大新聞の編集責任者を相手にケンカを挑んでも勝ち目の薄いことは目に見えている。しかし、このまま泣き寝入りするのは耐えられない。そのくやしい思いをどういう形で表現するか、それは井深の帰国を待って結論を出すことにした。